・・・先生は最初感情の動くがままに小説を書いて出版するや否や、忽ち内務省からは風俗壊乱、発売禁止、本屋からは損害賠償の手詰の談判、さて文壇からは引続き歓楽に哀傷に、放蕩に追憶と、身に引受けた看板の瑕に等しき悪名が、今はもっけの幸に、高等遊民不良少・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ わが呱々の声を揚げた礫川の僻地は、わたくしの身に取っては何かにつけてなつかしい追憶の郷である。むかしのままなる姿をなした雪駄直しや鳥さしなどを目撃したのも、是皆金剛寺坂のほとりに在った旧宅の門外であった。雪駄直しは饅頭形の籐笠をかぶり・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・ わたくしは我ながら意外なる追憶の情に打たれざるを得ない。両側の窓から呼ぶ声は一歩一歩急しくなって、「旦那、ここまで入らっしゃい。」というもあり、「おぶだけ上ってよ。」というのもある。中には唯笑顔を見せただけで、呼止めたって上る気のない・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・ 進む時間は一瞬ごとに追憶の甘さを添えて行く。私は都会の北方を限る小石川の丘陵をば一年一年に恋いしく思返す。 十二、三の頃まで私は自分の生れ落ちたこの丘陵を去らなかった。その頃の私には知る由もない何かの事情で、父は小石川の邸宅を売払・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・小学校から中学校へかけ、学生時代の僕の過去は、今から考えてみて、僕の生涯の中での最も呪わしく陰鬱な時代であり、まさしく悪夢の追憶だった。 こうした環境の事情からして、僕は益々人嫌いになり、非社交的な人物になってしまった。学校に居る時は、・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・ 過去の追憶は矢の様に心をかすめて次々にと現われる嬉しい悲しい思い出はいかほどこの世を去りがたくさせる事だろう。 或る苦痛を感じて死の来るべき事を知った心も我々が思う事は出来ない複雑な物哀れなものである。 厳かな死の手に、かすか・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
去る四月一日の『大学新聞』に逸見重雄氏が「野呂栄太郎の追憶」という長い文章を発表した。マルクス主義を深く理解している者としての筆致で、野呂栄太郎の伝記が細かに書かれ、最後は野呂栄太郎がスパイに売られて逮捕され、品川署の留置・・・ 宮本百合子 「信義について」
・・・例えば、祖母の右の腕は力がなく重い物が持てなかったその訳とか、姑で辛い思いを堪えた追憶だとか。出入りの者などはそれさえ知るまい。ただ、丹精な、いつも仕事をしていた御隠居という印象が、大した情も伴わずあるだけなのだ。 二日目の通夜が、徐々・・・ 宮本百合子 「祖母のために」
・・・歴史、民衆というもの、新社会というものに対する心持の内部的組立てが変ってしまい、日常の感動が新鮮な脈うちで彼の正直な、老いても猶純な血液を鼓動させる裡で、ゴーリキイはソレント生活の気分の中で、考照し、追憶したロシア民衆を書いていたそれをその・・・ 宮本百合子 「長篇作家としてのマクシム・ゴーリキイ」
『青丘雑記』は安倍能成氏が最近六年間に書いた随筆の集である。朝鮮、満州、シナの風物記と、数人の故人の追憶記及び友人への消息とから成っている。今これをまとめて読んでみると、まず第一に著者の文章の円熟に打たれる。文章の極致は、透明無色なガラ・・・ 和辻哲郎 「『青丘雑記』を読む」
出典:青空文庫