・・・ 赤穂の城を退去して以来、二年に近い月日を、如何に彼は焦慮と画策との中に、費した事であろう。動もすればはやり勝ちな、一党の客気を控制して、徐に機の熟するのを待っただけでも、並大抵な骨折りではない。しかも讐家の放った細作は、絶えず彼の身辺・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・ 日本人の労働者は単に日本人と生まれたが故に、パナマから退去を命ぜられた。これは正義に反している。亜米利加は新聞紙の伝える通り、「正義の敵」と云わなければならぬ。しかし支那人の労働者も単に支那人と生まれたが故に、千住から退去を命ぜられた・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ 撮影所から退去して、電車にゆられながら、男爵は、ひどく不愉快であった。もとの女中と、新橋駅で逢うということが、いやらしく下品に感じられてならなかった。破廉恥であると思った。不倫でさえあると考えた。行こうか行くまいか、さんざ迷った。行く・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ 贋百姓は落ちついて八本の薔薇を植え、白々しいお礼を述べて退去したのである。私は植えられた八本の薔薇を、縁側に立ってぼんやり眺めながら家内に教えた。「おい、いまのは贋物だぜ。」私は自分の顔が真赤になるのを意識した。耳朶まで熱くなった・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・問題の雀焼きは、お篠の退去後に食べたか、または興覚めて棄てちゃったか、思い出せない。さすがに、食べるのがいやになって、棄てちゃったような気もする。 これが即ち、恋はチャンスに依らぬものだ、一夜のうちに「妙な縁」やら「ふとした事」やら「も・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・準備が整って予定の時刻が迫ると、見物人らは一定の距離に画した非常線の外まで退去を命ぜられたので、自分らも花屋敷の鉄檻の裏手の焼け跡へ行って、合図のラッパの鳴るのを待っていた。その時、一匹の小さなのら犬がトボトボと、人間には許されぬ警戒線を越・・・ 寺田寅彦 「LIBER STUDIORUM」
・・・「しかもそれを宿のかみさんが見つけて、僕に退去を命じた」「さぞ困ったろうね」「なあに困らんさ、そんな事で困っちゃ、今日まで生きていられるものか。これから追い追い華族や金持ちを豆腐屋にするんだからな。滅多に困っちゃ仕方がない」・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・しかるにここに或る出来事が起っていくらおりたくっても退去せねばならぬ事となった、というと何か小説的だが、その訳を聞くとすこぶる平凡さ。世の中の出来事の大半は皆平凡な物だから仕方がない。この家はもとからの下宿ではない。去年までは女学校であった・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・プロシヤ政府は外国人の退去命令を発した。国籍なきマルクス一家は今や故郷にあって外国人であった。カールは赤いインクで刷られた『新ライン新聞』の最終版にケルンの労働者への訣別の辞をのせ、イエニーはもちものを質屋に入れ、夫妻はケルンを発った。・・・ 宮本百合子 「カール・マルクスとその夫人」
出典:青空文庫