・・・次郎が毎日はく靴を買ったという店の前あたりを通り過ぎると、そこはもう新橋の手前だ。ある銀行の前で、私は車を停めさせた。 しばらく私たちは、大きな金庫の目につくようなバラック風の建物の中に時を送った。「現金でお持ちになりますか。それと・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・何だか、そこに、幽かでも障子の鳥影のように、かすめて通り過ぎる気がかりのものが感じられて、僕はいよいよ憂鬱になるばかりであった。 それから半年ほども経ったろうか、戦地の君から飛行郵便が来た。君は南方の或る島にいるらしい。その手紙には、別・・・ 太宰治 「未帰還の友に」
・・・ふと汽車――豊橋を発ってきた時の汽車が眼の前を通り過ぎる。停車場は国旗で埋められている。万歳の声が長く長く続く。と忽然最愛の妻の顔が眼に浮かぶ。それは門出の時の泣き顔ではなく、どうした場合であったか忘れたが心からかわいいと思った時の美しい笑・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・赤い服、白い袴、黒い長靴の騎手の姿が樹の間を縫うて嵐のように通り過ぎる。群を離れた犬が一疋汀へ飛んで来て草の間を嗅いでいたが、笛の音が響くと弾かれたように駆け出して群の後を追う。 猟の群が通り過ぎると、ひっそりする。沼の面が鏡のように静・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・で、盲者が、話し声の反響で室の広さを判断しうるような微妙な音色の差別を再現することはまだできないのであるが、それにもかかわらず適当な雑音の適当な插入が画面の空間の特性を強調する事は驚くべきものである。通り過ぎる汽車の音の強まり弱まり消え去る・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・谷をおおう黒ずんだ青空にはおりおり白雲が通り過ぎるが、それはただあちこちの峰に藍色の影を引いて通るばかりである。咽喉がかわいて堪え難い。道ばたの田の縁に小みぞが流れているが、金気を帯びた水の面は青い皮を張って鈍い光を照り返してい・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・従って問題にしようともしなければ、また見ても見ないつもりで目をつぶって通り過ぎるのが通例である。 上記のごとき現象が純粋な自然探究者にとって決して興味がなくはないのであっても、それが現在の学問の既成体系の網に引っかからない限りは、それが・・・ 寺田寅彦 「物理学圏外の物理的現象」
・・・殊に清作が通り過ぎるときは、ちょっとあざ笑いました。清作はどうも仕方ないというような気がしてだまって画かきについて行きました。 ところがどうも、どの木も画かきには機嫌のいい顔をしますが、清作にはいやな顔を見せるのでした。 一本のごつ・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
・・・まさかこんな林には気も付かずに通り過ぎるだろうと思っていたら二人の役人がどこかで番をして見ていたのです。万一殺されないにしてももう縛られると私どもは覚悟しました。慶次郎の顔を見ましたらやっぱりまっ青で唇まで乾いて白くなっていました。私は役人・・・ 宮沢賢治 「二人の役人」
・・・他の一部の若い人々は全く山村のようにくよくよしずにさりとて現状に抗わず、僅かに自分の時間でせめては本だけでも読んだりして雨宿りでもしているように、現在の状態が通り過ぎることを傍観的に待っている。そのようにして「やがての時代までも健康に生きの・・・ 宮本百合子 「ヒューマニズムへの道」
出典:青空文庫