・・・「道理こそ、遅いと思いましたよ。」 忠左衛門は、煙にむせて、苦しそうに笑った。すると、頻に筆を走らせていた小野寺十内が、何かと思った気色で、ちょいと顔をあげたが、すぐまた眼を紙へ落して、せっせとあとを書き始める。これは恐らく、京都の・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・頭の鈍い人たちは、申し立つべき希望の端くれさえ持ち合わしてはいなかったし、才覚のある人たちは、めったなことはけっして口にしなかった。去年も今年も不作で納金に困る由をあれだけ匂わしておきながら、いざ一人になるとそんな明らかなことさえ訴えようと・・・ 有島武郎 「親子」
・・・トンミイ、フレンチ君が、糊の附いた襟が指に障るので顫えながら、嵌まりにくいシャツの扣鈕を嵌めていると、あっちの方から、鈍い心配気な人声と、ちゃらちゃらという食器の触れ合う音とが聞える。「あなた、珈琲が出来ました。もう五時です。」こう云う・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ まあ、お民さん許で夜更しして、じゃ、おやすみってお宅を出る。遅い時は寝衣のなりで、寒いのも厭わないで、貴女が自分で送って下さる。 門を出ると、あの曲角あたりまで、貴女、その寝衣のままで、暗の中まで見送ってくれたでしょう。小児が奥で・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ここに浮いていたというあたりは、水草の藻が少しく乱れているばかり、ただ一つ動かぬ静かな濁水を提灯の明りに見れば、ただ曇って鈍い水の光り、何の罪を犯した色とも思えない。ここからと思われたあたりに、足跡でもあるかと見たが下駄の跡も素足の跡も見当・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・と、父は僕の何にも言わない決心を見て取ったのだろう、「じゃア、もう、きょうは遅いから帰る。あす、早速うちまで来てもらいたい」 こう言って、父は帰って行った。 妻が痩せたのを連想するせいか、父も痩せていたようだし、今、相対する母もまた・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・といった。遅いとは思ったが、初めて時間に気が付いて急いで座を起とうとすると、尚だ余談が尽きないから泊って行けといいつつ、「お客様の床も持って来てくれ」と吩咐けた。 二葉亭は談話が上手でもあったしかつ好きでもあった。が、この晩ぐらい興奮し・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・「あまり遅いから、どうなさったのかと思って待っていたのよ。」と、若い上野先生は、にっこりなさいました。「叔母さんのお使いで、どうもすみません。」と、年子はいいました。窓から、あちらに遠くの森の頂が見えるお教室で、英語を先生から習った・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・「それにしちゃ馬鹿に遅いじゃねいか。何だかこの節お上さんの様子が変だぜ、店の方も打遣らかしにして、いやにソワソワ出歩いてばかりいるが……」「なあにね、今日は不漁で店が閑だから、こんな時でなけりゃゆっくり用足しにも出られないって」・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 坂を降りて北へ折れると、市場で、日覆を屋根の下にたぐり寄せた生臭い匂いのする軒先で、もう店をしもうたらしい若者が、猿股一つの裸に鈍い軒灯の光をあびながら将棋をしていましたが、浜子を見ると、どこ行きでンねンと声を掛けました。すると、浜子・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫