・・・ 間もなく貞二が運ぶ酒肴整いければ、われまず二郎がために杯を挙げてその健康を祝し、二郎次にわがために杯を挙げかくて二人ひとしく高く杯を月光にかざしてわが倶楽部の万歳を祝しぬ。 二郎はげに泣かざるなり、貴嬢が上を語りいで、こし方の事に・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・戯れに棒振りあげて彼の頭上に翳せば、笑うごとき面持してゆるやかに歩みを運ぶ様は主人に叱られし犬の尾振りつつ逃ぐるに似て異なり、彼はけっして媚を人にささげず。世の常の乞食見て憐れと思う心もて彼を憐れというは至らず。浮世の波に漂うて溺るる人を憐・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・「糧秣や被服を運ぶんだ。」「糧秣や被服を運ぶのに、なぜそんなに沢山橇がいるんかね。」 イワンが云った。「それゃいるとも。――兵たいはみんな一人一人服も着るし、飯も食うしさ……。」 商人は、ペーターが持っている二台の橇を聯隊の・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・持たせてやるものも、ないよりはまだましだぐらいの道具ばかり、それでも集めて、荷物にして見れば、洗濯したふとんから何からでは、おりから白く町々を埋めた春先の雪の路を一台の自動車で運ぶほどであった。 その時になって見ると、三人の兄弟の子・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・何やら丸い物を運ぶのだと手真似で言って、いっしょに行かぬかと言うのである。自分はついて行く気になる。馬の腹がざわざわと薄の葉を撫でる。 そこを出ると水天宮の社である。あとで考えると、このへんで引き返しさえしたらよかったのに、自分はいつま・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ おなかにも子供がいるし、背中にひとりおんぶして、もうひとりの子の手をひいて、そうして自身もかぜ気味で、一斗ちかいお米を運ぶ苦難は、その涙を見るまでもなく、私にもわかっている。「いるさ。いるよ。家にいるよ。」 それから、三十分く・・・ 太宰治 「父」
・・・母と、さとは客間に火鉢を用意するやら、お茶、お菓子、昼食がわりのサンドイッチ、祖父のウイスキイなど運ぶのにいそがしい。まず末弟から、読みはじめた。祖母は、膝をすすめ、文章の切れめ切れめに、なるほどなるほどという賛成の言葉をさしはさむので、末・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・間違ったのかと思って振り返る――兵站部は燈火の光、篝火の光、闇の中を行き違う兵士の黒い群れ、弾薬箱を運ぶかけ声が夜の空気を劈いて響く。 ここらはもう静かだ。あたりに人の影も見えない。にわかに苦しく胸が迫ってきた。隠れ家がなければ、ここで・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・のもう一つの特徴は、筋を運ぶための言葉をほとんど極端にまで切り詰め省略してしまったことである。それで話の筋から見れば事実上はほとんど無声映画と同じようなものである。それがためにかえってわずかに使われた人間の声がかなり有効に強調されて来る。た・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・そうしてその筆の穂を五倍子箱の中の五倍子の粉の中に突っ込んで粉を充分に含ませておいて口中に運ぶ、そうして筆の穂先を右へ左へ毎秒一往復ぐらいの週期で動かしながらまんべんなく歯列の前面を摩擦するのである。何分間ぐらいつづけていたかはっきりした記・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
出典:青空文庫