・・・そして、頭を傾けて、過ぎ去った、そのころのことを思い出そうとしましたが、うす青い霧の中に、世界が包まれているようで、そんなような姉さんがあったような、また、なかったような、不確かさで、なんとなく、悲しみが、胸の中にこみあげてくるのでした。・・・ 小川未明 「青い花の香り」
・・・としみじみ言って、女はそぞろに過ぎ去った自分の春を懐かしむよう。「ははは、何だか馬鹿に年寄り染みたことを言うじゃねえか。お光さんなんざまだ女の盛りなんだもの、本当の面白いことはこれからさ」「いいえ、もうこんな年になっちゃだめだよ。そ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・そして戎橋を越え、橋の南詰を道頓堀へ折れ、浪花座の前を通り、中座の前を過ぎ、角座の横の果物屋の前まで来ると、浜子と違って千日前の方へは折れずに、反対側の太左衛門橋の方へ折れて、そして橋の上でちょっと涼んで、北へ真っ直ぐ笠屋町の路地まで帰るの・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ で彼は何気ない風を装うつもりで、扇をパチ/\云わせ、息の詰まる思いしながら、細い通りの真中を大手を振ってやって来る見あげるような大男の側を、急ぎ脚に行過ぎようとした。「オイオイ!」 ……果して来た! 彼の耳がガアンと鳴った。・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 陰うつな暫時が過ぎてゆきました。其処へ弟が汗ばんだ顔で帰って来て「基ちゃん、貰って来たぜ、市営住宅で探し当てた。サアお上り」と言って薬を差出しました。病人は飛び付くようにして水でそれを呑み下しました。然し最早や苦痛は少しも楽に成りませ・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ その青年の顔にはわずかばかりの不快の影が通り過ぎたが、そう答えて彼はまた平気な顔になった。「そうだ。いや、僕はね、崖の上からそんな興味で見る一つの窓があるんですよ。しかしほんとうに見たということは一度もないんです。でも実際よく瞞さ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 茶店のことゆえ夜に入れば商売なく、冬ならば宵から戸を閉めてしまうなれど夏はそうもできず、置座を店の向こう側なる田のそばまで出しての夕涼み、お絹お常もこの時ばかりは全くの用なし主人の姪らしく、八時過ぎには何も片づけてしまい九時前には湯を・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・かくして過ぎなば「結局この国他国に破られて亡国となるべき也」これが日蓮の憂国であった。それ故に国家を安んぜんと欲せば正法を樹立しなければならぬ。これが彼の『立正安国論』の依拠である。 国内に天変地災のしきりに起こるのは、正法乱れて、王法・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ その日本人は、二十歳を過ぎたばかりだった。モスクワへ行きたい希望を抑えることができなかった。黒河に住んで一年になる。いつか、ブラゴウエシチェンスクにも、顔見知りが多くなっていた。 黒竜江にはところどころ結氷を破って、底から上ってく・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・言ったとて今更どうなることでも無いので、図に乗って少し饒舌り過ぎたと思ったのは疑いも無い。 中村は少し凹まされたかども有るが、この人は、「肉の多きや刃その骨に及ばず」という身体つきの徳を持っている、これもなかなかの功を経ているものなので・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
出典:青空文庫