・・・杉の茂りの後は忍返しをつけた黒板塀で、外なる一方は人通のない金剛寺坂上の往来、一方はその中取払いになって呉れればと、父が絶えず憎んで居る貧民窟である。もともと分れ分れの小屋敷を一つに買占めた事とて、今では同じ構内にはなって居るが、古井戸のあ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・むかしのままなる姿をなした雪駄直しや鳥さしなどを目撃したのも、是皆金剛寺坂のほとりに在った旧宅の門外であった。雪駄直しは饅頭形の籐笠をかぶり其の紐を顎にかけて結んでいたので顔は見えず、笠の下から顎の先ばかりが突出ているのが何となく気味悪く見・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・ * 金剛寺坂の笛熊さんというのは、女髪結の亭主で大工の本職を放擲って馬鹿囃子の笛ばかり吹いている男であった。按摩の休斎は盲目ではないが生付いての鳥目であった。三味線弾きになろうとしたが非常に癇が悪い。落話家の・・・ 永井荷風 「伝通院」
出典:青空文庫