・・・シトロン、十五銭。銭湯、五銭。六年ぶりで、ゆたかでした。使い切れず、ポケットには、まだ充分に。それから一年ちかく、二三度会った太宰治のおもかげを忘じがたく、こくめいに頭へ影をおとしている面接の記憶を、いとおしみながら、何十回かの立読みをつづ・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ 銀座の西裏通りで、今のジャーマンベーカリの向かいあたりの銭湯へはいりに行っていた。今あるのと同じかどうかはわからない。芸者がよく出入りしていた。首だけまっ白に塗ってあごから上の顔面は黄色ないしは桃色にして、そうして両方のたぼを上向きに・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・ この有難い設備と習慣とがなかったら東京市民の顔は今頃どんなものに変化しているだろう。 銭湯の湯船の中で見る顔には帝国主義もなければ社会主義もない。 もし東京市民が申し合せをして私宅の風呂をことごとく撤廃し、大臣でも職工でも皆同・・・ 寺田寅彦 「電車と風呂」
・・・お妾はいつでもこの時分には銭湯に行った留守のこと、彼は一人燈火のない座敷の置炬燵に肱枕して、折々は隙漏る寒い川風に身顫いをするのである。珍々先生はこんな処にこうしていじけていずとも、便利な今の世の中にはもっと暖かな、もっと明い賑かな場所がい・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・洗髪に黄楊の櫛をさした若い職人の女房が松の湯とか小町湯とか書いた銭湯の暖簾を掻分けて出た町の角には、でくでくした女学生の群が地方訛りの嘆賞の声を放って活動写真の広告隊を見送っている。 今になって、誰一人この辺鄙な小石川の高台にもかつては・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・ 何かいざこざが起ったりすると、目顔ですがるお君を見向きもしないで、盲滅法に、床屋だの銭湯に飛び込んだ。 そうも出来ない時には、部屋の隅にかたく座って、眼も心もつぶって、木像の様に身動きさえもしなかった。 只、専ら怖れて居ると云・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・それより、こんなにわるい銭湯の状態が、もっともっとよくなることを切望しています。自分のものでなくても、自分はじめみんなが衛生的に気もちよくつかえる銭湯をもちたいと、どんな方でもおっしゃると思います。ある区会議員の選挙演説では、当区内の浴場を・・・ 宮本百合子 「社会と人間の成長」
・・・小銭湯の様な特別の湯槽をだれかの家へあずけて、湯のないものは、その家の家族のとは違った湯槽に入る様にしたらいいだろうのにと祖母にも云ったけれ共、湯のたて廻しなどが平常気の置けない交際機関になって居るので、今急にそれをやめれば皆が不自由するし・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・ 田舎からぽっと出の女中が、銭湯の帰り何か変なものをさげて叱鳴って歩く男の気違が来ると横丁にぴったりと息をころして行きすぎるのを待って家へ走りかえったと云う話なんかも思い出す。「のれん」の中に首をつっこんでフーフー云いながら食べて居・・・ 宮本百合子 「夜寒」
・・・けれども、昨夜銭湯へ行ったとき、八百円の札束を鞄に入れて、洗い場まで持って這入って笑われた記憶については忘れていた。 農婦は場庭の床几から立ち上ると、彼の傍へよって来た。「馬車はいつ出るのでござんしょうな。悴が死にかかっていますので・・・ 横光利一 「蠅」
出典:青空文庫