・・・よし母は盗みを為たところで、自分にその金銭が有るならば今の場合、自分等夫婦は全く助かるものをなど考がえると、金銭という者が欲くもあり、悪くもあり、同時にその金銭のために少しも悩まされないで、長閑かにこの世を送っている者が羨ましくもなり、又実・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ょいと見廻って来るからと云って、少し離れたところに建ててある養蚕所を監視に出て行ったので、この広い家に年のいかないもの二人限であるが、そこは巡査さんも月に何度かしか回って来ないほどの山間の片田舎だけに長閑なもので、二人は何の気も無く遊んでい・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・たとえば、その書簡の封を開くと、その中からは意外な悲しいことや煩わしいことが現われようとも、それは第二段の事で、差当っては長閑な日に友人の手紙、それが心境に投げられた恵光で無いことは無い。 見るとその三四の郵便物の中の一番上になっている・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・中川沿岸も今でこそ各種の工場の煙突や建物なども見え、人の往来も繁く人家も多くなっているが、その時分は隅田川沿いの寺島や隅田の村でさえさほどに賑やかではなくて、長閑な別荘地的の光景を存していたのだから、まして中川沿い、しかも平井橋から上の、奥・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・晴れきった空からは、かすかな、そして長閑な世間のどよめきが聞えて来る。それを自分だけが陰気な穴の中で聞いているような気がする。何処か遊びに行ってみたい。行かれぬのでなおそう思う。田端辺りでも好い。広々した畑地に霜解けを踏んで、冬枯れの木立の・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・ 近頃にない舒びやかな心持になって門を出たら、長閑な小春の日影がもうかなり西に傾いていた。 三 ノーベル・プライズ ある夜いつものように仕事をしていると電話がかかって来た。某新聞社からだという。何事かと思って出・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・これで札幌の町の十何条二十何丁の長閑さを羨まなくてもすむことになったわけである。 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・とにかく震災地とは思われない長閑な光景であるが、またしかし震災地でなければ見られない臨時応急の「託児所」の光景であった。 この幼い子供達のうちには我家が潰れ、また焼かれ、親兄弟に死傷のあったようなのも居るであろうが、そういう子等がずっと・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・しかし当時の自分にはその光景がひどく美しく長閑なものに思われ、そうして女中等のそういう態度に対して少なからず不満を懐いたようであった。 その後重兵衛さんの一家がどうなったか。これに関する自分の記憶は実に綺麗に拭われたように消えてしまって・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・何となしこの小春日にふさわしい長閑なものの名である。 幕があくと舞台は銀座街頭の場面だそうで、とあるバーの前に似顔絵かきと靴磨き二人と夕刊売りの少女が居る。その少女が先刻のバスの少女であるが、ここでは年齢が急に五つか六つ若くなっている。・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
出典:青空文庫