・・・二人はそれでも編笠に顔を包んで、兼ねて敵打の場所と定めた祥光院の門前へ向った。ところが宿を離れて一二町行くと、甚太夫は急に足を止めて、「待てよ。今朝の勘定は四文釣銭が足らなかった。おれはこれから引き返して、釣銭の残りを取って来るわ。」と云っ・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・と云う意味に「門前雀羅を張る」の成語を用いた。「門前雀羅を張る」の成語は支那人の作ったものである。それを日本人の用うるのに必ずしも支那人の用法を踏襲しなければならぬと云う法はない。もし通用さえするならば、たとえば、「彼女の頬笑みは門前雀羅を・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・「門前の土鳩を友や樒売り」――こう云う天保の俳人の作は必ずしも回向院の樒売りをうたったものとは限らないであろう。それとも保吉はこの句さえ見れば、いつも濡れ仏の石壇のまわりにごみごみ群がっていた鳩を、――喉の奥にこもる声に薄日の光りを震わせて・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・ ここに適例がある、富岡門前町のかのお縫が、世話をしたというから、菊枝のことについて記すのにちっとも縁がないのではない。 幕府の時分旗本であった人の女で、とある楼に身を沈めたのが、この近所に長屋を持たせ廓近くへ引取って、病身な母親と、長・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・予は今門前において見たる数台の馬車に思い合わせて、ひそかに心に頷けり。渠らのある者は沈痛に、ある者は憂慮わしげに、はたある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで、忙しげなる小刻みの靴の音、草履の響き、一種寂寞たる病院の高き天井と、広き・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・躊躇する暇もない、忽門前近く来てしまった。「政夫さん……あなた先になって下さい。私極りわるくてしょうがないわ」「よしとそれじゃ僕が先になろう」 僕は頗る勇気を鼓し殊に平気な風を装うて門を這入った。家の人達は今夕飯最中で盛んに話が・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・この向島名物の一つに数えられた大伽藍が松雲和尚の刻んだ捻華微笑の本尊や鉄牛血書の経巻やその他の寺宝と共に尽く灰となってしまったが、この門前の椿岳旧棲の梵雲庵もまた劫火に亡び玄関の正面の梵字の円い額も左右の柱の「能発一念喜愛心」及び「不断煩悩・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・また例えば金光寺門前の狐竜の化石延命院の牡丹の弁の如き、馬琴の得意の涅覓論であるが、馬琴としては因縁因果の解決を与えたのである。馬琴の人生観や宇宙観の批評は別問題として、『八犬伝』は馬琴の哲学諸相を綜合具象した馬琴宗の根本経典である。・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・まして、枕を高くして寝ている師走の老大家の眠りをさまたげるような高声を、その門前で発するようなことはしたくない。 しかも敢てこのような文章を書くのは、老大家やその亜流の作品を罵倒する目的ではなく、むしろ、それらの作品を取り巻く文壇の輿論・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・のみならず、いかに門前の俥夫だったとはいえ、殆んど無学文盲の丹造の独力では、記事の体裁も成りがたくて、広告もとれず、たちまち経営難に陥った。そこを助けたのが、丹造今日の大を成すに与って力のあった古座谷某である。古座谷はかつて最高学府に学び、・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
出典:青空文庫