・・・霊南坂で鉄道草の香りから夏を越した秋がもう間近に来ているのだと思ったような晩もあります。妄想で自らを卑屈にすることなく、戦うべき相手とこそ戦いたい、そしてその後の調和にこそ安んじたいと願う私の気持をお伝えしたくこの筆をとりました。――一・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・成るべきかと内々楽しみにいたしおり候 しかし今は弁当官吏の身の上、一つのうば車さえ考えものという始末なれど、祖父様には貞夫もはや重く抱かれかね候えば、乳母車に乗せてそこらを押しまわしたきお望みに候間近々大憤発をもって一つ新調をいたすはず・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・ 自分はたちどまった……心細くなってきた、眼に遮る物象はサッパリとはしていれど、おもしろ気もおかし気もなく、さびれはてたうちにも、どうやら間近になッた冬のすさまじさが見透かされるように思われて。小心な鴉が重そうに羽ばたきをして、烈しく風・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・第三期に這入って帝国主義戦争が間近かに切迫して来るに従って、ブルジョアジーは入営する兵士たちに対してばかりでなく、全国民を、青年訓練所や、国家総動員計画や、その他あらゆる手段をつくして軍国主義化しようと狂奔している。そして、それはまた、労働・・・ 黒島伝治 「入営する青年たちは何をなすべきか」
・・・兄にとっては、ただ冗談だけでそんなことをしていたのでは無く、自身の肉体消滅の日時が、すぐ間近に迫っていることを、ひそかに知っていて、けれども兄の鬼面毒笑風の趣味が、それを素直に悲しむことを妨げ、かえって懸命に茶化して、しさいらしく珠数を爪繰・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・大群集、老いも若きも、あの人のあとにつき従い、やがて、エルサレムの宮が間近になったころ、あの人は、一匹の老いぼれた驢馬を道ばたで見つけて、微笑してそれに打ち乗り、これこそは、「シオンの娘よ、懼るな、視よ、なんじの王は驢馬の子に乗りて来り給う・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・結婚式も間近かなのである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今は此のシラク・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・ 朝飯が終わったころはもうシンガポール間近に来ていた、そして強い驟雨が襲って来た。海の色は暗緑で陸近いほうは美しい浅緑色を示していた。みごとな虹が立ってその下の海面が強く黄色に光って見えた。右舷の島の上には大きな竜巻の雲のようなものがた・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・青い羅衣をきたような淡路島が、間近に見えた。「綺麗ですね」などと桂三郎は讃美の声をたてた。「けどここはまだそんなに綺麗じゃないですよ。舞子が一番綺麗だそうです」 波に打上げられた海月魚が、硝子が熔けたように砂のうえに死んでいた。・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・トラックの中に、荷物の間に五六人のスキャップを積み込んで、会社間近まで来たとき、トラックの運転手と変装していた利平が、ひどくやられたのもこのときであったのだ。 それでも、職長仲間の血縁関係や、例えば利平のように、親子で勤めている者は、そ・・・ 徳永直 「眼」
出典:青空文庫