・・・身を切るような風吹きて霙降る夜の、まだ宵ながら餅屋ではいつもよりも早く閉めて、幸衛門は酒一口飲めぬ身の慰藉なく堅い男ゆえ炬燵へ潜って寝そべるほどの楽もせず火鉢を控えて厳然と座り、煙草を吹かしながらしきりに首をひねるは句を案ずるなりけり。・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・しばらく、さら/\と降る雪の音ばかりがあった。「一っぺん病院へ引っかえせ!」相変らず、軍医の声は悄然としていた。「雪が降るからですか?」 誰れかがきいた。「うゝむ。」「じゃ、雪がやんだら帰れるんですね?」 返事がなか・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ところは寂びたり、人里は遠し、雨の小止をまたんよすがもなければ、しとど降る中をひた走りに走らす。ようやく寺尾というところにいたりたる時、路のほとりに一つ家の見えければ、車ひく男駆け入りて、おのれらもいこい、我らをもいこわしむ。男らの面を見れ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ N町から中野へ出ると、あののろい西武電車が何時のまにか複線になって、一旦雨が降ると、こねくり返える道がすっかりアスファルトに変っていた。随分長い間あそこに坐っていたのだという事が、こと新しい感じになって帰ってきた。 新宿は特に帰え・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・もそもの端緒一向だね一ツ献じようとさされたる猪口をイエどうも私はと一言を三言に分けて迷惑ゆえの辞退を、酒席の憲法恥をかかすべからずと強いられてやっと受ける手頭のわけもなく顫え半ば吸物椀の上へ篠を束ねて降る驟雨酌する女がオヤ失礼と軽く出るに俊・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ 遽かに復活るように暖い雨の降る日、泉は亡くなった青年の死を弔おうとして、わざわざ小県の方から汽車でやって来た。その青年は、高瀬も四年手掛けた生徒だ。泉と連立って、高瀬はその生徒の家の方へ歩いて行った。 赤坂という坂の町を下りようと・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ はらはらと風もないのに松葉が降る。方々の機の音が遠くの虫を聞くようである。自分は足もとのわが宿を見下す。宿は小鳥の逃げた空籠のようである。離れの屋根には木の葉が一面に積って朽ちている。物置の屋根裏で鳩がぽうぽうと啼いている。目の前の枯・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ その夜は、それから矢島さんたちは紙の闇取引の商談などして、お帰りになったのは十時すぎで、私も今夜は雨も降るし、夫もあらわれそうもございませんでしたので、お客さんがまだひとり残っておりましたけれども、そろそろ帰り支度をはじめて、奥の六畳・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・これが雨が一日降ると、壁土のように柔らかくなって、靴どころか、長い脛もその半ばを没してしまうのだ。大石橋の戦争の前の晩、暗い闇の泥濘を三里もこねまわした。背の上から頭の髪まではねが上がった。あの時は砲車の援護が任務だった。砲車が泥濘の中に陥・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・松本から島々までの電車でも時々降るかと思うとまた霽れたりしていた。行手の連峰は雨雲の底面でことごとくその頂を切り取られて、山々はただ一面に藍灰色の帷帳を垂れたように見えている。その幕の一部を左右に引きしぼったように梓川の谿谷が口を開いている・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
出典:青空文庫