・・・「御隠居様。旦那様がちょいと御店へ、いらして下さいっておっしゃっています。」「はい、はい、今行きます。」 叔母は懐炉を慎太郎へ渡した。「じゃ慎ちゃん、お前お母さんを気をつけて上げておくれ。」 叔母がこう云って出て行くと、・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ですから茂作が重病になると、稲見には曽祖母に当る、その切髪の隠居の心配と云うものは、一通りや二通りではありません。が、いくら医者が手を尽しても、茂作の病気は重くなるばかりで、ほとんど一週間と経たない内に、もう今日か明日かと云う容体になってし・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・修理を押込め隠居にして、板倉一族の中から養子をむかえようと云うのである。―― 何よりもまず、「家」である。当主は「家」の前に、犠牲にしなければならない。ことに、板倉本家は、乃祖板倉四郎左衛門勝重以来、未嘗、瑕瑾を受けた事のない名家である・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・それ等がたよりで、隠居仕事の寮番という処を、時流に乗って、丸の内辺の某倶楽部を預って暮したが、震災のために、立寄ったその樹の蔭を失って、のちに古女房と二人、京橋三十間堀裏のバラック建のアパアトの小使、兼番人で佗しく住んだ。身辺の寒さ寂しさよ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・古い隠居か。むかしものの物好で、稽古を積んだ巧者が居て、その人たち、言わば素人の催しであろうも知れない。狸穴近所には相応しい。が、私のいうのは流儀の事ではない。曲である。 この、茸―― 慌しいまでに、一樹が狂言を見ようとしたのも、他・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・の、人なき薄汚れた座蒲団のあたりを見て、婆さんは後見らるる風情であったが、声を低うし、「全体あの爺は甲州街道で、小商人、煮売屋ともつかず、茶屋ともつかず、駄菓子だの、柿だの饅頭だのを商いまする内の隠居でございまして、私ども子供の内から親・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・女子供や隠居老人などが、らちもなき手真似をやって居るものは、固より数限りなくある、乍併之れらが到底、真の茶趣味を談ずるに足らぬは云うまでもない、それで世間一般から、茶の湯というものが、どういうことに思われて居るかと察するに、一は茶の湯という・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・殊に老人のある家では写本が隠居仕事の一つであったので、今はモウ大抵潰されてしまったろうが私の青年時代には少し旧い家には大抵お祖父さんか曾祖父さんとかの写本があった。これがまた定って当時の留書とかお触とか、でなければ大衆物即ち何とか実録や著名・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・であるから貸本屋の常得意の隠居さんや髪結床の職人や世間普通の小説読者よりは広く読んでいたし、幾分かは眼も肥えていた。であるから坪内君の『書生気質』を読んでも一向驚かず、平たくいうと、文学士なんてものは小説を書かせたら駄目なものだと思っていた・・・ 内田魯庵 「明治の文学の開拓者」
・・・「ご隠居さん、ここには上等のお菓子はありません。飴チョコならありますが、いかがですか。」と、菓子屋のおかみさんは答えました。「飴チョコを見せておくれ。」と、つえをついた、黒い頭巾をかぶった、おばあさんはいいました。「どちらへ、お・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
出典:青空文庫