・・・の二十入りの空き箱に水を打ったらしい青草がつまり、それへ首筋の赤い蛍が何匹もすがっていたと言うことです。もっともそのまた「朝日」の空き箱には空気を通わせるつもりだったと見え、べた一面に錐の穴をあけてあったと云うのですから、やはり半之丞らしい・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・――お前もな、青草ものの商売や。お客から祝儀とか貰うようには行かんぞな。」「でも、」 と蕈が映す影はないのに、女の瞼はほんのりする。 安値いものだ。……私は、その言い値に買おうと思って、声を掛けようとしたが、隙がない。女が手を離・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ずれでな、往来から岡の方へ余程経上って、小高い所にあるから一寸見ても涼しそうな家さ、おれがいくとお町は二つの小牛を庭の柿の木の蔭へ繋いで、十になる惣領を相手に、腰巻一つになって小牛を洗ってる、刈立ての青草を籠に一ぱい小牛に当てがって、母子が・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・この溝の水はたぶん、小金井の水道から引いたものらしく、よく澄んでいて、青草の間を、さも心地よさそうに流れて、おりおりこぼこぼと鳴っては小鳥が来て翼をひたし、喉を湿おすのを待っているらしい。しかし婆さんは何とも思わないでこの水で朝夕、鍋釜を洗・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・一本の青草もない。 私は岩山の岸に沿うてよろよろと歩いた。あやしい呼び声がときどき聞える。さほど遠くからでもない。狼であろうか。熊であろうか。しかし、ながい旅路の疲れから、私はかえって大胆になっていた。私はこういう咆哮をさえ気にかけず島・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・私は、恋をしているのかも知れない。青草原に仰向けに寝ころがった。「お父さん」と呼んでみる。お父さん、お父さん。夕焼の空は綺麗です。そうして、夕靄は、ピンク色。夕日の光が靄の中に溶けて、にじんで、そのために靄がこんなに、やわらかいピンク色・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・四月のはじめに、こんな、春の青草を見る事が出来るなんて、思いも寄らなかったわ。青草? しかし、雪の下から現われたのは青草だけじゃないんだ。ごらん、もう一面の落葉だ。去年の秋に散って落ちた枯葉が、そのまんま、また雪の下から現われて来た。意・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・いまにあたたかくなり、雪が溶けて、田圃の青草が見えて来るようになったら、あたしは毎日鍬をかついで田畑に出て、黙って働くつもりです。あたしは、ただの百姓女になります。あたしだけでなく、睦子をも、百姓女にしてしまうつもりです。あたしは今の日本の・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・ふと前方を見ると、緑いろの寝巻を着た令嬢が、白い長い両脚を膝よりも、もっと上まであらわして、素足で青草を踏んで歩いている。清潔な、ああ、綺麗。十メエトルと離れていない。「やあ!」佐野君は、無邪気である。思わず歓声を挙げて、しかもその透き・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・たのしみは、夜夜、夢を見ることであった。青草の景色もあれば、胸のときめく娘もいた。 或る朝、三郎はひとりで朝食をとっていながらふと首を振って考え、それからぱちっと箸をお膳のうえに置いた。立ちあがって部屋をぐるぐる三度ほどめぐり歩き、それ・・・ 太宰治 「ロマネスク」
出典:青空文庫