・・・母親は白い頭髪を短く角刈にして、気品があった。妹は二十歳前後の小柄な痩せた女で、矢絣模様の銘仙を好んで着ていた。あんな家庭を、つつましやかと呼ぶのであろう。ほぼ半年くらい住まって、それから品川のほうへ越していったけれど、その後の消息を知らな・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・試みにこれらの絵の頭髪を薄色にしてしまったとしたら絵の全部の印象が消滅するように私には思われる。この基調をなす黒斑に対応するためにいろいろの黒いものが配合されている。たとえば塗下駄や、帯や、蛇の目傘や、刀の鞘や、茶托や塗り盆などの漆黒な斑点・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
・・・よれよれに寝くたれた、しかも不つりあいに派手な浴衣を、だらしなく前上がりに着て、後ろへはほどけかかった帯の端をだらりとたらしている。頭髪もすずめの巣のように乱れているが、顔には年に似合わぬ厚化粧をしている。何かの病気で歩行が困難らしい。妙な・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・流れのなかをいくらかめだつたかい背の白浴衣地がまむかいにきて、視線があったとたん、ややあかっぽい頭髪がうつむいた。 ――すれちがうとき、女はつれの小娘に肩をぶっつけるようにしてまた笑い声をたてた。ひびく声であった。三吉は橋の袂までいって・・・ 徳永直 「白い道」
・・・阿呆陀羅経のとなりには塵埃で灰色になった頭髪をぼうぼう生した盲目の男が、三味線を抱えて小さく身をかがめながら蹲踞んでいた。阿呆陀羅経を聞き飽きた参詣戻りの人たちが三人四人立止る砂利の上の足音を聞分けて、盲目の男は懐中に入れた樫のばちを取り出・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・ 再び彼の体を戦慄がかけ抜け、頭髪に痛さをさえ感じた。 電燈がパッと消えた。 深谷が静かにドアを開けて出て行った。 ――奴は恋人でもできたのだろうか?―― 安岡は考えた。けれども深谷は決して女のことなど考えたり、まして恋・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ 先ず風から見ると、頭髪をわけ、うしろでまるめるはよいが、白いゴムに光る碧石が入った大きなお下げどめをし、紺サージの洋服に水色毛糸帽同色リボンつきといういでたち。顔に縦じわ非常に多く、すっかりあかのつまった長い爪、顔の色あかぐろく、やせ・・・ 宮本百合子 「一九二三年冬」
・・・彼は片手に彼女の頭髪を繩のように巻きつけた。――逃げよ。余はコルシカの平民の息子である。余はフランスの貴族を滅ぼした。余は全世界の貴族を滅ぼすであろう。逃げよ。ハプスブルグの女。余は高貴と若さを誇る汝の肉体に、平民の病いを植えつけてやるであ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・りを打って、シクシク泣ていたのが、夜に入ってから少しウツウツしたと思って、フト眼を覚すと、僕の枕元近く奥さまが来ていらっしゃって、折ふし霜月の雨のビショビショ降る夜を侵していらしったものだから、見事な頭髪からは冷たい雫が滴っていて、気遣わし・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・ 一年もたたぬ間にイタリーは小さいデュウゼに充ち充ちた。頭髪をかきむしり、指を噛み、よろめき泣く。彼らは彼女の芸術を見るばかりでなくその人をまねた。世間の人は毎日毎日彼女を夢に見てあくがれているように見えた。 ヘルマン・バアルは・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫