・・・笹鳴きは口の音に迷わされてはいるが、そんな場合のカナリヤなどのように、機微な感情は現わさなかった。食欲に肥えふとって、なにか堅いチョッキでも着たような恰好をしている。――堯が模ねをやめると、愛想もなく、下枝の間を渡りながら行ってしまった。・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・あの時は飛瀑の音、われを動かすことわが情のごとく、巌や山や幽なる森林や、その色彩形容みなあの時においてわれを刺激すること食欲のごときものありたり。すなわちあの時はただ愛、ただ感ありしのみ、他に思考するところの者を藉り来たりて感興を助くるに及・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・豚肉の匂いの想像は、もう、彼等の食慾を刺戟していた。それ程、彼等は慾望の満されぬ生活をつゞけているのだ。 沼地から少しばかり距った、枯れ草の上で彼等は止った。そこで膝射の姿勢をとった。農民が逃げて、主人がなくなった黒い豚は、無心に、そこ・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・史が血肉を具し脈絡が知れるに至るのであり、今までの光輝がわが曹の頭上にかがやき、香気が我らの胸に逼って、そして今人をして古文明を味わわしめ、それからまた古人とは異なった文明を開拓させるに至るのである。食欲色欲ばかりで生きている人間は、まだ犬・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・さかんな食慾を満たそうとする人達は、ほんとうにうまいものに有りついた最中らしい。話声一つ泄れて来なかった。静かだ。「どうぞ、御隠居さん、ゆっくり召上って下さいまし。今日はわたしにお給仕させていただきますよ」 と言いながら、お力は過ぐ・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・と言うように、くんくん言っていましたが、それでもまだ食べようとしないので、相手の食慾をそそろうとするように、その肉のきれのかどを、小さく食い切って、ぺちゃぺちゃと食べて見せました。それでも病犬は、じっとしたまま動きません。こちらの犬は、しか・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・「ちっとも食欲が起らないわ。」「まあ、食べてみなさい。おいしいだろう? みんな食べなさい。僕は、たくさん食べて来たのだ。」「お顔にかかわりますよ。」家の者は、意外な事を小声で言った。「私はそんなに食べたくもないのですから、女中さんに・・・ 太宰治 「新郎」
・・・せっかく苦労して、悪い材料は捨て、本当においしいところだけ選んで、差し上げているのに、ペロリと一飲みにして、これは腹の足しにならぬ、もっとみになるものがないか、いわば食慾に於ける淫乱である。私には、つき合いきれない。 何も、知らないので・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・ 食慾も、またあの性慾とやらも、何も無い涼しい恋の会話が続いて、夢で、以前に何度も見た事のある、しかし、地球の上には絶対に無い湖のほとりの青草原に私たち夫婦は寝ころぶ。「くやしいでしょうね。」「馬鹿だ。みな馬鹿ばかりだ。」 ・・・ 太宰治 「フォスフォレッスセンス」
・・・次男は、ものも言わず、猛烈な勢いで粥を啜り、憤然と梅干を頬張り、食慾は十分に旺盛のようである。「さとは、どう思うかねえ。」半熟卵を割りながら、ふいと言い出した。「たとえば、だね、僕がお前と結婚したら、お前は、どんな気がすると思うかね。」・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
出典:青空文庫