・・・今度、同銀行蔵掃除について払下げに相成ったを、当商会において一手販売をする、抵当流れの安価な煙草じゃ、喫んで芳ゅう、香味、口中に遍うしてしかしてそのいささかも脂が無い。私は痰持じゃが、」 と空咳を三ツばかり、小さくして、竹の鞭を袖へ引込・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・緑雨の作の価値を秤量するにニーチェやトルストイを持出すは牛肉の香味を以て酢の物を論ずるようなものである。緑雨の通人的観察もまたしばしば人生の一角に触れているので、シミッ垂れな貧乏臭いプロの論客が鼻を衝く今日緑雨のような小唄で人生を論ずるもの・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ヴァニラの香味がなんとも知れず、見た事も聞いた事もない世界の果ての異国への憧憬をそそるのであった。それを、リキュールの杯ぐらいな小さなガラス器に頭を丸く盛り上げたのが、中学生にとってはなかなか高価であって、そうむやみには食われなかった。それ・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・とにかくこの生まれて始めて味わったコーヒーの香味はすっかり田舎育ちの少年の私を心酔させてしまった。すべてのエキゾティックなものに憧憬をもっていた子供心に、この南洋的西洋的な香気は未知の極楽郷から遠洋を渡って来た一脈の薫風のように感ぜられたも・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・そのアイスクリームの香味には普通のヴァニラの外に一種特有な香味の混じているのに気がついた。そうしてそれが杏仁水であることを思い出すと同時に妙な記憶が喚び起されて来たのである。 中学四年頃のことであったかと思う。同級のI君が脚気で亡くなっ・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・チューインガムよりは刺激のある辛くて甘い特別な香味をもったものである。それから肉桂酒と称するが実は酒でもなんでもない肉桂汁に紅で色をつけたのを小さなひょうたん形のガラスびんに入れたものも当時のわれわれのためには天成の甘露であった。 甘蔗・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・糞尿を分析すれば飲食した物の何であったかはこれを知ることが出来るが、食った刹那の香味に至っては、これを語って人をして垂涎三尺たらしむるには、優れたる弁舌が入用になるわけである。そして、わたくしにはこの弁舌がないのであった。乙亥正月記・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・能代の膳には、徳利が袴をはいて、児戯みたいな香味の皿と、木皿に散蓮華が添えて置いてあッて、猪口の黄金水には、桜花の弁が二枚散ッた画と、端に吉里と仮名で書いたのが、浮いているかのように見える。 膳と斜めに、ぼんやり箪笥にもたれている吉里に・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・いわなは香味鮎に似たり。 二十一日、あるじ来て物語す。父は東京にいでしことあれど、おのれは高田より北、吹上より南を知らずという。東京の客のここへ来ることは、年に一たびあらんなどいえど、それも山田へとてにはあらざるべし。きょう今までの座敷・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・ある者は大和絵と文人画と御舟と龍子との混合酒を造ってその味の新しきを誇り、ある者はインドとシナの混合酒に大和絵の香味をつけてその珍奇を目立たせようとする。昔の和歌に巧妙な古歌の引用をもって賞讃を博したものがあるが、この種の絵もそういう技巧上・・・ 和辻哲郎 「院展日本画所感」
出典:青空文庫