・・・元来慌てもののせっかちの癖に、かねて心臓が弱くて、ものの一町と駆出すことが出来ない。かつて、彼の叔父に、ある芸人があったが、六十七歳にして、若いものと一所に四国に遊んで、負けない気で、鉄枴ヶ峰へ押昇って、煩って、どっと寝た。 聞いてさえ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・風にもめげずに皆駆出すが、ああいう児だから、一人で、それでも遊戯さな……石盤へこう姉様の顔を描いていると、硝子戸越に……夢にも忘れない……その美しい顔を見せて、外へ出るよう目で教える……一度逢ったばかりだけれども、小児は一目顔を見ると、もう・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・お幾は段を踏辷らすようにしてずるりと下りて店さきへ駆け出すと、欄干の下を駆け抜けて壁について今、婆さんの前へ衝と来たお米、素足のままで、細帯ばかり、空色の袷に襟のかかった寝衣の形で、寝床を脱出した窶れた姿、追かけられて逃げる風で、あわただし・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・……そうかと思うと、今になって一目散に駆出すのがある。心は種々な処へ、これから奥は、御堂の背後、世間の裏へ入る場所なれば、何の卑怯な、相合傘に後れは取らぬ、と肩の聳ゆるまで一人で気競うと、雨も霞んで、ヒヤヒヤと頬に触る。一雫も酔覚の水らしく・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・親熊は突然あと足を折って尻もちをつくような格好をして一度ぐるりと回るかと思うと、急いで駆け出すが、すぐに後ろを振りむいて何かしら自分の腰に食いついている目に見えぬ敵を追い払おうとする様子をする。命取りの強敵はもう深く体内に侵入しているがそん・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・を早口に歌ってしまうと何かに追われでもしたようにみんないっせいに駆け出すのであった。そういうときの不思議な気持ちを今でもありありと思い出すことができる。 自分が物心づくころからすでにもうかなりのおばあさんであって、そうして自分の青年時代・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ 私は、あわてふためいて台どころに降り、バケツに水を汲み込み、そとへ駆け出す。水がこぼれるから早くは駆けられない。体の肥って丸い、髪をぐるぐる巻にした私は、ドン・キホーテのところへと憐れに取急ぐサンチョ・パンザのように、瘠せて、脊高く勇・・・ 宮本百合子 「この夏」
出典:青空文庫