・・・ 二三年前初夏の一日、神田五軒町通の一古書肆の店頭を過ぎて、偶然高橋松莚、池田大伍の二君に邂逅した。わたくしは行先の当てもなく漫然散策していた途上であった。二君はこの日午前より劇場に在って演劇の稽古の思いの外早く終ったところから、相携え・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・一日深川の高橋から行徳へ通う小さな汚い乗合のモーター船に乗って、浦安の海村に遊んだことがある。小舷を打つ水の音が俄に耳立ち、船もまた動揺し出したので、船窓から外を見たが、窓際の席には人がいるのみならず、その硝子板は汚れきって磨硝子のように曇・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・その年正月の下半月、師匠の取席になったのは、深川高橋の近くにあった、常磐町の常磐亭であった。 毎日午後に、下谷御徒町にいた師匠むらくの家に行き、何やかやと、その家の用事を手つだい、おそくも四時過には寄席の楽屋に行っていなければならない。・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・僕のやうな人間が、もし自然のままの傾向で惰力して行つたら、おそらく辻潤や高橋新吉のやうな本格的のダダイストになつたにちがひない。それが幸ひ一つの昂然たる貴族的精神によつて、今日まで埋没から救はれてるのは、ひとへに全くニイチェから学んだ訓育の・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・四月四日、上田君と高橋君は今日も学校へ来なかった。上田君は師範学校の試験を受けたそうだけれどもまだ入ったかどうかはわからない。なぜ農学校を二年もやってから師範学校なんかへ行くのだろう。高橋君は家で稼いでいてあとは学校へは行かない・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・スパイは当時日本共産党東京地方に活動していた渾名亀こと高橋であった。一九三三年は文学的には殆ど活動不可能の状態であった。左翼に対する弾圧は、ジャーナリズムの上にプロレタリア作家の活動する余地を与えなかったし、私個人の生活事情から言っ・・・ 宮本百合子 「年譜」
・・・「そいから御隠居さん、私の家の前の高橋の息子を知って居なするべ。あれが暮に除隊になって来るってなし、母どんは今から騒ぎ廻って居るのえ。花嫁様、さがすべえし、もうけ口さがすべえしない。百姓には、したくないちゅうてなし。中学出したからで・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・、児童の保護、民族の自立のために働いている。十二月には新しい中華人民共和国の北京で、アジアの平和のために婦人大会がもたれ、そこへ日本からの代表もゆこう。 村松章子さんの「黙殺された女達」、高橋春子さんの「コスモスの花にゆれる秋」、矢倉ふ・・・ 宮本百合子 「「未亡人の手記」選後評」
・・・鶴崎を経て、肥後国に入り、阿蘇山の阿蘇神宮、熊本の清正公へ祈願に参って、熊本と高橋とを三日ずつ捜して、舟で肥前国島原に渡った。そこに二日いて、長崎へ出た。長崎で三日目に、敵らしい僧を島原で見たと云う話を聞いて、引き返して又島原を五日尋ねた。・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・三 ファウストの訳本は最初高橋五郎君のが出た。次いで私のを印刷しているうちに、町井正路君のが出た。どちらも第一部だけである。私は自分が訳してしまうまで、他人の訳本を読まずにいた。第一部も第二部も訳してしまってから、両君の第一・・・ 森鴎外 「不苦心談」
出典:青空文庫