・・・ カーライルが麦藁帽を阿弥陀に被って寝巻姿のまま啣え煙管で逍遥したのはこの庭園である。夏の最中には蔭深き敷石の上にささやかなる天幕を張りその下に机をさえ出して余念もなく述作に従事したのはこの庭園である。星明かなる夜最後の一ぷくをのみ終り・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・と圭さんが云い了らぬうちに、雨を捲いて颯とおろす一陣の風が、碌さんの麦藁帽を遠慮なく、吹き込めて、五六間先まで飛ばして行く。眼に余る青草は、風を受けて一度に向うへ靡いて、見るうちに色が変ると思うと、また靡き返してもとの態に戻る。「痛快だ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・と、彼はもう帽子を被っていた。麦藁帽であった。彼の手が、ブルッと顔を撫でると、口髭が生えた。さて、彼は、夏羽織に手を通しながら、入口の処で押し合っている、人混みの中へ紛れ込んだ。 旦那の眼四つは、彼を見たけれど、それは別な人間を見た。彼・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・そして麦束はポンポン叩かれたと思うと、もうみんな粒が落ちていました。麦稈は青いほのおをあげてめらめらと燃え、あとには黄色な麦粒の小山が残りました。みんなはいつの間にかそれを摺臼にかけていました。大きな唐箕がもう据えつけられてフウフウフウと廻・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・大きな屑籠を背負い、破れた麦稈帽子に、美しい顔の半分をかくした春桃は、「屑イ、マッチに換えまァす」と呼んで暑い日寒い日を精出した。そして帰れば夏冬の区別なく必ず体を拭いた。その湯を用意して待っているのは向高である。葱五六本、茶碗一杯の胡麻醤・・・ 宮本百合子 「春桃」
・・・十八九ばかりの書生風の男で、浴帷子に小倉袴を穿いて、麦藁帽子を被って来たのを、女中達が覗いて見て、高麗蔵のした「魔風恋風」の東吾に似た書生さんだと云って騒いだ。それから寄ってたかってお蝶を揶揄ったところが、おとなしいことはおとなしくても、意・・・ 森鴎外 「心中」
・・・ 僕は薄縁の上に胡坐を掻いて、麦藁帽子を脱いで、ハンケチを出して額の汗を拭きながら、舟の中の人の顔を見渡した。船宿を出て舟に乗るまでに、外の座敷の客が交ったと見えて、さっき見なかった顔がだいぶある。依田さんは別の舟に乗ったと見えて、とう・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・渡辺の待っていた人が来たのである。麦藁の大きいアンヌマリイ帽に、珠数飾りをしたのをかぶっている。鼠色の長い着物式の上衣の胸から、刺繍をした白いバチストが見えている。ジュポンも同じ鼠色である。手にはウォランのついた、おもちゃのような蝙蝠傘を持・・・ 森鴎外 「普請中」
・・・既に金網をもって防戦されたことを知った心臓は、風上から麦藁を燻べて肺臓めがけて吹き流した。煙は道徳に従うよりも、風に従う。花壇の花は終日濛々として曇って来た。煙は花壇の上から蠅を追い散らした勢力よりも、更に数倍の力をもって、直接腐った肺臓を・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・明るい色の衣裳や、麦藁帽子や、笑声や、噂話はたちまちの間に閃き去って、夢の如くに消え失せる。秋の風が立つと、燕や、蝶や、散った花や、落ちた葉と一しょに、そんな生活は吹きまくられてしまう。そして別荘の窓を、外から冬の夜の闇が覗く。人に見棄てら・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫