・・・女は徳二郎の渡した大コップに、なみなみと酒をついで息もつかずに飲んだ。「も一ツ」と今度は徳二郎がついでやったのを、女はまたもや一息に飲み干して、月に向かって酒気をほっと吐いた。「サアそれでよい、これからわしが歌って聞かせる。」「・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・机の上には大理石の屑、塩酸の壜、コップなどが置いてあった。蝋燭の火も燃えていた。学士は手にしたコップをすこし傾げて見せた。炭素がその玻璃板の間から流れると、蝋燭の火は水を注ぎ掛けられたように消えた。 高瀬は戸口に立って眺めていた。 ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・末弟ひとり、特別に大きいコップで飲んでいる。 退屈したときには、皆で、物語の連作をはじめるのが、この家のならわしである。たまには母も、そのお仲間入りすることがある。「何か、無いかねえ。」長兄は、尊大に、あたりを見まわす。「きょうは、・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ コップで?」「深夜の酒は、コップに注げ、とバイブルに在る。」 私は嘘を言った。 キクちゃんは、にやにや笑いながら、大きいコップにお酒をなみなみと注いで持って来た。「まだ、もう一ぱいぶんくらい、ございますわ。」「いや、こ・・・ 太宰治 「朝」
・・・ 中野のお店の土間で、夫が、酒のはいったコップをテーブルの上に置いて、ひとりで新聞を読んでいました。コップに午前の陽の光が当って、きれいだと思いました。「誰もいないの?」 夫は、私のほうを振り向いて見て、「うん。おやじはまだ・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・テエブルの上には琥珀のように黄色いビイルと黒耀石のように黒いビイルのはいったコップが並んで立っている。どちらを見ても異人ばかりである。それが私には分らない言葉で話している。 高い旗竿から八方に張り渡した縄にはいろいろの旗が並んで風に靡い・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・向うへ着いたときに一同はコップに入れた黄色い飲料を振舞われた。それは強い薬臭い匂と甘い味をもった珍しい飲料であった。要するにそれは一種の甘い水薬であったのである。もっともI君の家は医家であったので、炎天の長途を歩いて来たわれわれ子供たちのた・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・ まず手近な盆栽や菓子やコップなどと手当たり次第にかいてみた。始めのうちはうまいのかまずいのかそんな事はまるで問題にならなかった。そういう比較的な言葉に意味があろうはずはなかった。画家の数は幾万人あっても自分は一人しかいないのであった。・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・ 長野がコップをつきつけた。女房に子供もあるがチャップリンひげと、ながいあごをもっているこの男は、そんな意味でも女工たちに人気があった。三吉は焼酎をのみながら、事務的に用件をいった。いいながら自分に腹がたってくる。どうしてもこの男にバカ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・という調子でコップを僕の鼻先につきつけるものもあるようになった。 此等の人々は見るところ大抵僕よりは年が少い。僕は嫌悪の情に加えて好奇の念を禁じ得なかった。何故なれば、僕は文士ではあるが東京に生れたので、自分ではさほど世間に晦いとも思っ・・・ 永井荷風 「申訳」
出典:青空文庫