・・・野末はるかに百舌鳥のあわただしく鳴くが聞こゆ。純白の裏羽を日にかがやかし鋭く羽風を切って飛ぶは魚鷹なり。その昔に小さき島なりし今は丘となりて、その麓には林を周らし、山鳩の栖処にふさわしきがあり。その片陰に家数二十には足らぬ小村あり、浜風の衝・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・ かりに既婚者の男子が一人の美しき娘を見るのと、未婚者の男子がそうするのとでは、後者の方がはるかに憧憬に満ちたものであることは容易に想像されるであろう。それが未婚者の世界の洋々たる、未知のよろこびなのだ。その如くに童貞者にあるまじりなき・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・にかゝれた戦争よりも、真実味の程度に於て、純粋で、はるかにしのいでいる。トルストイのような古今無双の天才でも、自分が実際行ったセバストポールと、想像と調査が書いた「戦争と平和」に於ける戦争とには、段がついている。「セバストポール」には、・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・田の川のほとりに住めるものから、いつぞはこの川の出ずるところをも究め、武蔵禰乃乎美禰と古の人の詠みけんあたりの山々をも見んなど思いしことの数次なりしが、ある時は須田の堤の上、ある時は綾瀬の橋の央より雲はるかに遠く眺めやりし彼の秩父嶺の翠色深・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・その海岸は眼路もはるかなといっていいほど砂丘が広々と波打っていた。よく牛が紐のような尻尾で背のあぶを追いながら草を食っていた。彼はそこ以外ではいけないと思った。彼はそこでのことをいろいろに想像した。 龍介は他にお客がなかったとき恵子に「・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・ 自分は気がついたように、海の方を見わたす。はるかの果てに地方の山が薄っすら見える。小島の蔭に鳥貝を取る船が一と群帆を聯ねている。「ね、鳩が餌を拾うでしょう」と藤さんがいう。「芝生に何か落ちてるんでしょうか」「あたしがさっき・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ しかし、織田君の哀しさを、私はたいていの人よりも、はるかに深く感知していたつもりであった。 はじめて彼と銀座で逢い、「なんてまあ哀しい男だろう」と思い、私も、つらくてかなわなかった。彼の行く手には、死の壁以外に何も無いのが、ありあ・・・ 太宰治 「織田君の死」
・・・があったが、これも前に一見した新派俳優のよりもはるかにおもしろく見られた。人間がやっていると思うと、どうしても感じる矛盾や不自然さが、人形だと、そう感じられない。あれで、もし背景などをもう少しくふうしてあれほど写実的にしなかったら、いっそう・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・中には宏大な門構えの屋敷も目についた。はるか上にある六甲つづきの山の姿が、ぼんやり曇んだ空に透けてみえた。「ここは山の手ですか」私は話題がないので、そんなことを訊いてみた。もちろん私一箇としては話題がありあまるほどたくさんあった。二人の・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・その眼路のはるかつきるまで、咽喉のひりつくような白くかわいた道がつづいていた。 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫