・・・が、日本人が中へはいって見ると、そこには印度人の婆さんがたった一人立っているばかり、もう支那人の女の子は、次の間へでも隠れたのか、影も形も見当りません。「何か御用ですか?」 婆さんはさも疑わしそうに、じろじろ相手の顔を見ました。・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・波打際から随分遠い所に、波に隠れたり現われたりして、可哀そうな妹の頭だけが見えていました。 浜には船もいません、漁夫もいません。その時になって私はまた水の中に飛び込んで行きたいような心持ちになりました。大事な妹を置きっぱなしにして来たの・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・は思わず、膝をついて、天井を仰いだが、板か、壁か明かならず、低いか、高いか、定でないが、何となく暗夜の天まで、布一重隔つるものがないように思われたので、やや急心になって引寄せて、袖を見ると、着たままで隠れている、外套の色が仄に鼠。 菓子・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・僕の心は明々白々で隠れたところはない」などというておったが、僕のわからぬというのは、そういうことではない。余事はともかく、第一に君は二年も三年も妻子に離れておって平気なことである。そういえば君は、「何が平気なもんか、万里異境にある旅情のさび・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・八畳の座敷が二つある、そのとッつきの方へはいり、立てかけてあった障子のかげに隠れて耳をそば立てた。「おッ母さんは、ほんとに、どうする気だよ?」「どうするか分りゃアしない」「田村先生とは実際関係がないか?」「また、しつッこい!・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・本家は風流に隠れてしまったが、分家は今でも馬喰町に繁昌している。地震の火事で丸焼けとなったが、再興して依然町内の老舗の暖簾といわれおる。 椿岳の米三郎は早くから絵事に志ざした風流人であって、算盤を弾いて身代を肥やす商売人肌ではなかった。・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・文学は独立の思想を維持する人のために、もっとも便益なる隠れ場所であろうと思います。しかしながらただ今も申し上げましたとおり、かならずしも誰にでも入ることのできる道ではない。 ここにいたってこういう問題が出てくる。文学者にもなれず学校の先・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・どこか屋根の上に隠れて止まっていた一群の鳩が、驚いて飛び立って、たださえ暗い中庭を、一刹那の間一層暗くした。 聾になったように平気で、女はそれから一時間程の間、やはり二本の指を引金に掛けて引きながら射撃の稽古をした。一度打つたびに臭い煙・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・日は漸々西に傾いて、波の上が黄金色に輝いて、あちらの岩影が赤く光った時分には、もうその船の姿は波の中に隠れて、煙が一筋、空に残っていたばかりです。 その日は、お姉さまといっしょに海辺で遊び暮らして、疲れた足をひきずって家に帰りました。・・・ 小川未明 「赤い船」
・・・とうとう綱の先の方は、雲の中へ隠れて、見えなくなってしまいました。 もうあといくらも綱が手許に残っていなくなると、爺さんはいきなりそれで子供の体を縛りつけました。 そして、こう言いました。「坊主。行って来い。俺が行くと好いのだが・・・ 小山内薫 「梨の実」
出典:青空文庫