・・・最後の車輛に翻った国旗が高粱畑の絶え間絶え間に見えたり隠れたりして、ついにそれが見えなくなっても、その車輛のとどろきは聞こえる。そのとどろきと交じって、砲声が間断なしに響く。 街道には久しく村落がないが、西方には楊樹のやや暗い繁茂がいた・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・特許局に隠れていた足掛け八年の地味な平和の生活は、おそらく彼のとっては意義の深いものであったに相違ないが、ともかくも三十一にして彼は立って始めて本舞台に乗り出した訳である。一九一一年にはプラーグの正教授に招聘され、一九一二年に再びチューリヒ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・然らばこの問題を逆にして試に東京の外観が遠からずして全く改革された暁には、如何なる方面、如何なる隠れた処に、旧日本の旧態が残されるかを想像して見るのも、皮肉な観察者には興味のないことではあるまい。実例は帝国劇場の建築だけが純西洋風に出来上り・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・若い衆はみんな自分の女を見つけると彼を棄ててそこらの藪や林へこそこそと隠れて畢う。太十はどの女にも嫌われた。丁度水に弾かれる油のようであった。それでも彼は昼間は威勢よく馬を曳いて出た。彼は紺の腹掛に紺の長いツツポ襦袢を着て三尺帯を前で結んで・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・河を隔てて木の間隠れに白くひく筋の、一縷の糸となって烟に入るは、立ち上る朝日影に蹄の塵を揚げて、けさアーサーが円卓の騎士と共に北の方へと飛ばせたる本道である。「うれしきものに罪を思えば、罪長かれと祈る憂き身ぞ。君一人館に残る今日を忍びて・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・読者にしてもし、私の不思議な物語からして、事物と現象の背後に隠れているところの、或る第四次元の世界――景色の裏側の実在性――を仮想し得るとせば、この物語の一切は真実である。だが諸君にして、もしそれを仮想し得ないとするならば、私の現実に経験し・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・深谷の腰から下は土の陰に隠れた。 キー、キー、バリッ、と釘の抜ける音がした。鍬で、棺の蓋をこじ開けたらしかった。 深谷の姿は、穴の中にかがみ込んで見えなかった。 が、鋸が、確かに骨を引いている響きが、何一つ物音のない、かすかな息・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・文明の学者士君子にして、腐儒の袖の下に隠れ儒説に保護せられて、由て以て文明社会を瞞着せんとする者と言う可し。其窮唯憐む可きのみ。或は此腐儒説の被保人等が窮余に説を作りて反対を試みんとすることもあらんか、甚だ妙なり。我輩は満天下の人を相手にし・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・わたくしは開けようと思った戸を開けずに、帷の蔭に隠れていました。わたくしはただいま書く事をどう書いたら、あなたがお分かりになるだろうかと存じて、それに苦心をいたします。 ピエエルさん。何よりさきにあなたに申さなくてはならないのは、あなた・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・己はお前達の美に縛せられて、お前達を弄んだお蔭で、お前達の魂を仮面を隔てて感じるように思った代には、本当の人生の世界が己には霧の中に隠れてしまった。お前達が自分で真の泉の辺の真の花を摘んでいながら、己の体を取り巻いて、己の血を吸ったに違いな・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫