・・・心細い。ああ、僕の部屋の机の上に、高木先生の、あの本が載せてあるんだがなあ、と思っても、いまさら、それを取りに行って来るわけにもゆくまい。あの本には、なんでも皆、書かれて在るんだけれど、いまは泣きたくなって、舌もつれ、胴ふるえて、悲鳴に似た・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・しばらくして君は、竹の皮に包まれたお弁当を二つかかえて現れ、「残念です。嗚呼、残念だ。時間が無いんですよ、もう。」「何時間も無いのか? もう、すぐか?」と僕は、君の所謂落着きの無いところを発揮した。「十一時三十分まで。それまでに・・・ 太宰治 「未帰還の友に」
・・・よっぽど、いい家庭のお嬢さんよりも、その、鮎の娘さんのほうが、はるかにいいのだ、本当の令嬢だ、とも思うのだけれども、嗚呼、やはり私は俗人なのかも知れぬ、そのような境遇の娘さんと、私の友人が結婚するというならば、私は、頑固に反対するのである。・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・ふっと呪文が、とぎれた、と同時に釜の中の沸騰の音も、ぴたりと止みましたので、王子は涙を流しながら少し頭を挙げて、不審そうに祭壇を見た時、嗚呼、「ラプンツェル、出ておいで。」という老婆の勝ち誇ったような澄んだ呼び声に応えて、やがて現われた、ラ・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・汽車もああなってはおしまいだ。ふと汽車――豊橋を発ってきた時の汽車が眼の前を通り過ぎる。停車場は国旗で埋められている。万歳の声が長く長く続く。と忽然最愛の妻の顔が眼に浮かぶ。それは門出の時の泣き顔ではなく、どうした場合であったか忘れたが心か・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・包みの重りが幾キログランムかありそうな心持がする。ああ。恋しきロシアよ。あそこには潜水夫はいない。町にも掃除人はいない。秘密警察署はあっても、外の用をしている。極右党も外国の侯爵に紙包みを返してやろうなんぞとは思わない。いわんやおれは侯爵で・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・しかし、乗客はみな、そんな面倒なことなどは考えないで「ああ涼しい」という。科学的な客観的な言葉を用いたがる現代人は「空気がちがって来た」というのである。一と月後には下の平野におとずれるはずの初秋がもうここまで来ているのである。 沓掛駅の・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・枯枝を拾いて砂に嗚呼忠臣など落書すれば行き来の人吾等を見る。半時間ほども両人無言にて美人も通りそうにもなし。ようよう立上がりて下流へ行く。河とは名ばかりの黄色き砂に水の気なくて、照りつく日のきらめく暑そうなり。川口に当りて海面鏡のごとく帆船・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・……ああ、面白えこともあった。苦しいこともあった。十一の年に実のお袋の仕向が些と腑におちねえことがあって、可愛がってくれた里親の家から、江戸へ逃げて来てから、色々なことをやりましたが、火事にも逢や、女房にも死別れた。忘れもしねえ、暑い土用の・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ こんなとき、私が、「ああおれはこんにゃく屋だよ。それがどうしたんだい」 と言えればよかった。そしたら意地悪共も黙ってしまったにちがいない。ところが不可ないことには私にその勇気がなかったので、もう二つの桶をあっちの石垣やこっちの・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
出典:青空文庫