・・・余は再び手真似を交ぜて解剖的の説明を試みた所が、女主人は突然と、ああサンゴミか、というた。それならば内の裏にもあるから行って見ろというので、余は台所のような処を通り抜けて裏まで出て見ると、一間半ばかりの苗代茱萸が累々としてなって居った。これ・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・津軽海峡、トラピスト、函館、五稜郭、えぞ富士、白樺、小樽、札幌の大学、麦酒会社、博物館、デンマーク人の農場、苫小牧、白老のアイヌ部落、室蘭、ああ僕は数えただけで胸が踊る。五時間目には菊池先生がうちへ宛てた手紙を渡して、またいろいろ話され・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・「あああ、私も当分ここででも暮そうかしら」「いいことよ、のびのびするわそりゃ」「――部屋貸しをするところあるかしらこの近所に」 ふき子は、びっくりしたように、「あら本気なの、陽ちゃん」といった。「本気になりそうだ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・故に余敢ていつはらずして此事を記しぬ。嗚呼。神如何なれば人の子を試み給ふや。如何なれば血熱し易き余を捕へ給ひて苦き盃を与へ給ひしや。如何なれば常に御前に跪き祈りし夫れを顧み給はざるや。余の祭壇には多くの捧物なせる中に最大の一なりし余が la・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・これこそ時代のモラルであるとし、高見順、石川達三、丹羽文雄の新進諸氏の作品は題も「嗚呼いやなことだ」「豺狼」等と銘し、室生犀星氏が悪党の世界へ想念と趣向の遠足を試みている小説等とともに、痛い歯の根を押して見るような痛痒さの病的な味を、読者に・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・ 女房がすり寄って、そびえている肩に手をかけると、長十郎は「あ、ああ」と言って臂を伸ばして、両眼を開いて、むっくり起きた。「たいそうよくお休みになりました。お袋さまがあまり遅くなりはせぬかとおっしゃりますから、お起し申しました。それ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・そんな時はツァウォツキイも「ああ、おれはなんと云う不しあわせものだろう」とこぼしている。 ある時ツァウォツキイの家で、また銭が一文もなくなった。ツァウォツキイはそれを恥ずかしく思った。そしてあの小さい綺麗な女房がまたパンの皮を晩食にする・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ ああ今の東京、昔の武蔵野。今は錐も立てられぬほどの賑わしさ、昔は関も立てられぬほどの広さ。今仲の町で遊客に睨みつけられる烏も昔は海辺四五町の漁師町でわずかに活計を立てていた。今柳橋で美人に拝まれる月も昔は「入るべき山もなし」、・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・「お母ア、馬々。」「ああ、馬々。」男の子は母親から手を振り切ると、厩の方へ馳けて来た。そうして二間ほど離れた場庭の中から馬を見ながら、「こりゃッ、こりゃッ。」と叫んで片足で地を打った。 馬は首を擡げて耳を立てた。男の子は馬の真似・・・ 横光利一 「蠅」
・・・が、事実問題として、ああいう美しさが六月の太陽に照らされたほの暑い農村の美しさのすべてであるとは言えないであろう。小林氏にしてもあれ以外に多くの色や光や運動の美しさを認めたであろう。しかし氏はその内から一の情趣をつかんだ。そうしてそれを描き・・・ 和辻哲郎 「院展日本画所感」
出典:青空文庫