・・・ 電話の切れるのが合図だったように、賢造は大きな洋傘を開くと、さっさと往来へ歩き出した。その姿がちょいとの間、浅く泥を刷いたアスファルトの上に、かすかな影を落して行くのが見えた。「神山さんはいないのかい?」 洋一は帳場机に坐りな・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・と云う合図をした。靄の中に仄めいた水には白い小犬の死骸が一匹、緩い波に絶えず揺すられていた。そのまた小犬は誰の仕業か、頸のまわりに花を持った一つづりの草をぶら下げていた。それは惨酷な気がすると同時に美しい気がするのにも違いなかった。のみなら・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・ そういって彼れは笏を上げて青年たちに一足先きに行けと眼で合図した。青年たちが騒ぎ合いながら堂母の蔭に隠れるのを見届けると、フランシスはいまいましげに笏を地に投げつけ、マントと晴着とをずたずたに破りすてた。 次の瞬間にクララは錠のお・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 古来有名なる、岩代国会津の朱の盤、かの老媼茶話に、奥州会津諏訪の宮に朱の盤という恐しき化物ありける。或暮年の頃廿五六なる若侍一人、諏訪の前を通りけるに常々化物あるよし聞及び、心すごく思いけるおり、又廿五六なる若侍来る。好き連と・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・これを合図に、一斉にチイと鳴出す。――塀と枇杷の樹の間に当って。で御飯をくれろと、催促をするのである。 私が即ち取次いで、「催促てるよ、催促てるよ。」「せわしないのね。……煩いよ。」 などと言いながら、茶碗に装って、婦たちは・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・貴女、時を計って、その鸚鵡の釵を抜いて、山の其方に向って翳すを合図に、雲は竜のごとく湧いて出よう。――なおその上に、可いか、名を挙げられい。……」――賢人の釣を垂れしは、厳陵瀬の河の水。月影ながらもる夏は、山田の筧の水と・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・船の中で、合図をしているように思われました。彼は、がけをおりようかと思いましたが、ほんとうに、自分を迎えにきてくれたのなら、何人か、ここまでやってくるにちがいない。すべて、運命や奇蹟というものは、そうなければならぬものだと考えられたからであ・・・ 小川未明 「希望」
・・・そこでその船に向かって、陸からいろいろの合図をいたしました。けれど、その船からはなんの返答もありませんでした。「あれはあたりまえの船と違うようだ。きっと幽霊船であるかもしれない。」といったものもありました。そして幽霊船というものは見・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
・・・ガランガランという振鈴の音を合図に、さしも熱しきっていた群衆もゾロゾロ引挙げる。と、小使らしい半纒着の男が二人、如露と箒とで片端から掃除を始める。私の傍の青い顔の男もいつの間にかいなくなった。ガランとした広い会所の窓ガラスには、赤い夕日がキ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 牧師が賛美歌の番号を知らすと、堂のすみから、ものものしい重い、低い調子でオルガンの一くさり、それを合図に一同が立つ。そして男子の太い声と婦人の清く澄んだ声と相和して、肉声の一高一低が巧妙な楽器に導かれるのです、そして「たえなるめぐみ」・・・ 国木田独歩 「あの時分」
出典:青空文庫