・・・よう飽きもせずに降るの」と独り言のように言いながら、ふと思い出した体にて、吾が膝頭を丁々と平手をたてに切って敲く。「脚気かな、脚気かな」 残る二人は夢の詩か、詩の夢か、ちょと解しがたき話しの緒をたぐる。「女の夢は男の夢よりも美くしか・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・そして読書に飽きたオオビュルナンの目には Balzac が小説に出る女主人公のように映ずるのである。 そこへまた他の一種の感情が作用する。それはやや高尚な感情で、自分の若かった昔の記念である。あの頃の事を思ってみれば、感情生活の本源まで・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・その内でも酸味の多いものは最も厭きにくくて余計にくうが、これは熱のある故でもあろう。夏蜜柑などはあまり酸味が多いので普通の人は食わぬけれど、熱のある時には非常に旨く感じる。これに反して林檎のような酸味の少い汁の少いものは、始め食う時は非常に・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・眺めても眺めても厭きないのです。そのわけは、雲のみねというものは、どこか蛙の頭の形に肖ていますし、それから春の蛙の卵に似ています。それで日本人ならば、ちょうど花見とか月見とか言う処を、蛙どもは雲見をやります。「どうも実に立派だね。だんだ・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・車室の中は、青い天蚕絨を張った腰掛けが、まるでがら明きで、向うの鼠いろのワニスを塗った壁には、真鍮の大きなぼたんが二つ光っているのでした。 すぐ前の席に、ぬれたようにまっ黒な上着を着た、せいの高い子供が、窓から頭を出して外を見ているのに・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・身もだえする若い妻としての思いに屈して何年もすごして来ていた作者が、その心情の昏迷に飽き疲れて自分という始末のつかないものの身辺から遠くはなれてそれを眺めることができる題材。観察し、描くことのできる何かをつかまえたい本能的な欲望が作用してい・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
・・・偶然、安芸書房の広中氏と故宮原晃一郎氏の夫人とが知りあいの間柄で、「古き小画」の切りぬきは、宮原夫人を通じて手に入った。そして、ここにおさめられることになった。「古き小画」で作者は、古代の近東の封建的な武人生活の悲劇を描こうとしている。・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
・・・けれども、そう云われて坐っていたということばかりは、よくよくおなかが空きでもしたと見えて、今もはっきり覚えている。 家の日々の空気が作用する そんな思い出の一方には又こんなこともある。 小学校へ入って程なく・・・ 宮本百合子 「親子一体の教育法」
・・・この間新聞に、通称ママといわれる売笑婦が焼跡の空きビルで屍体となって発見されたという記事がありました。世界には有名なゾラの小説でナナという売笑婦がありました。ミミという売笑婦もいました。ルルという女もいます。同じ字を二つ重ねた売笑婦の愛嬌の・・・ 宮本百合子 「自覚について」
・・・ こないだ地図見たら太平洋の真中があんまり明きすぎてるからあすこへ一杯国を作ってやろうや。 ね、そうしたら随分面白いだろうなあ。 手足をピンピン振り動かして跳ね廻る程面白がり始めました。 遠くの方をながめながら、・・・ 宮本百合子 「小さい子供」
出典:青空文庫