・・・ でもね、私達が小石川に居た所のそばにもう六十位の眼明きの御琴の御師匠さんが居ましてね、 かなり人望があって沢山の御弟子が居るんで『おさらい』だなんて云うと随分はでにしてました。 それがね何でも夏の中頃だと思ってましたけど一晩の・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
・・・ 其の時分は、今私の書斎になって居る陰の多い、庇が長い為に日光が直射する事のない、考えるには真に工合の好い五畳が空き部屋になって居たので、其処がすぐ「お叔父ちゃんのお部屋」に定められて居た。 非常に砂壁の落ちる棚の上だの部屋の周囲に・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・入ったばかりの右側は大きい書物机で、その机と寝台との間には、僅か二畳ばかりの畳の空きがある。その茶色の古畳の上にも、ベッドの上にも机の上にも、竹すだれで遮りきれない午後の西日が夕方まで暑気に燃えていた。その座敷は、目には見えないほこりが焦げ・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・Intエントレッサン の病症でなくては厭き足らなく思う。又偶々所謂興味ある病症を見ても、それを研究して書いて置いて、業績として公にしようとも思わなかった。勿論発見も発明も出来るならしようとは思うが、それを生活の目的だとは思わない。始終何か更・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・そこを三日捜して、舟で安芸国宮島へ渡った。広島に八日いて、備後国に入り、尾の道、鞆に十七日、福山に二日いた。それから備前国岡山を経て、九郎右衛門の見舞旁姫路に立ち寄った。 宇平、文吉が姫路の稲田屋で九郎右衛門と再会したのは、天保六年乙未・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・上杉家は弾正大弼斉定、浅野家は安芸守斉賢の代である。 父伊兵衛は恐らくは帳簿と書出とにしか文字を書いたことはあるまい。然るに竜池は秦星池を師として手習をした。狂歌は初代弥生庵雛麿の門人で雛亀と称し、晩年には桃の本鶴廬また源仙と云った。ま・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・遺物だと云っても、物はもう亡くなって、只空き名が残っているに過ぎない。客観的には元から幽霊は幽霊であったのだが、昔それに無い内容を嘘き入れて、有りそうにした主観までが、今は消え失せてしまっている。怪談だの百物語だのと云うものの全体が、イブセ・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・ここは農夫の客に占められたりしがようやく明きしなり。隣の間に鬚美しき男あり、あたりを憚らず声高に物語するを聞くに、二言三言の中に必ず県庁という。またそれがこの地のさだめかという代りに「それがこの鉱泉の憲法か」などいう癖あり。ある時はわが大学・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・これとはうらうえなるは、松井田にて西洋人の乗りしとき、車丁の荷物を持ちはこびたると、松井田より本庄まで汽車のかよわぬ軌道を、洋服きたる人の妻子婢妾にとおらせ、猶飽きたらでか、これを空きたる荷積汽車にのせて人に推させたるなどなりき。渾てこの旅・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・キスをしました。厭きました。そこでおさらばと云うわけでございますからね。 男。いかにもおっしゃる通りです。 女。そこでわたくしはこの道を右に参りましょう。あなたは少しの間ここに立って待っていらっしゃって、それから左の方へおいでなさい・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
出典:青空文庫