・・・が、彼は悪感を冒しても、やはり日毎に荷を負うて、商に出る事を止めなかった。甚太夫は喜三郎の顔を見ると、必ず求馬のけなげさを語って、この主思いの若党の眼に涙を催させるのが常であった。しかし彼等は二人とも、病さえ静に養うに堪えない求馬の寂しさに・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・譚は僕等の寄宿舎生活中、誰にも悪感を与えたことはなかった。若し又多少でも僕等の間に不評判になっていたとすれば、それはやはり同室だった菊池寛の言ったように余りに誰にもこれと言うほどの悪感を与えていないことだった。………「だが君の厄介になる・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・ 沼南の清貧咄は強ち貧乏を衒うためでもまた借金を申込まれる防禦線を張るためでもなかったが、場合に由ると聴者に悪感を抱かせた。その頃毎日新聞社に籍を置いたG・Yという男が或る時、来て話した。「僕は社の会計から煙草銭ぐらい融通する事はあるが・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・そして、狭小、野卑の悪感を催さない。なぜならば、これ、一人の感情ではなかったゝめだ。郷人の意志であり、情熱であった。これを、土と人とが産んだものと見るのが本当であろう。 民謡を都会の舞台に乗せたり、また、職業的詩人をして、一夜造りに、こ・・・ 小川未明 「常に自然は語る」
・・・丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろ・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・男爵は、ぶるっと悪感を覚えた。髪が逆立つとまでは言えないが、けれども、なにか、異様にからだがしびれた。たしかに畏怖の感情である。人生の冷酷な悪戯を、奇蹟の可能を、峻厳な復讐の実現を、深山の精気のように、きびしく肌に感じたのだ。しどろもどろに・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ 悪漢佐伯も、この必死の抗議には参ったらしく、急に力が抜けた様子で、だらりと両腕を下げ、蒼白の顔に苦笑を浮かべ、「返すよ。返すよ。返してやるよ。」と自嘲の口調で言って、熊本君の顔を見ずにナイフを手渡し、どたりと椅子に腰を下した。・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・「大悪漢から見れば、この世の人たちは、みんな甘くて弱虫だろうよ。」 私は再び暗憺たる気持ちになった。これは、いけない。「馬鹿」で救われて、いい気になっていたら、ひどい事になった。「そうですか。」私は、うらめしかった。「それでは、あな・・・ 太宰治 「誰」
・・・ほとんど職業的な悪漢である。言う事が、うまい。「チルチルもうそろそろ足を洗ったらどうだ。鶴見画伯のお坊ちゃんが、こんな工合いじゃ、いたましくて仕様が無い。おれたちに遠慮は要らないぜ。」思案深げに、しんみり言う。 チルチルなるもの、感・・・ 太宰治 「花火」
・・・ おや、笑ったな、ちきしょうめ、あたしの手紙を軽蔑したな、そうよ、どうせ、あたしは下手よ、おっちょこちょいの化け猫ですよ、あたしの手紙の、深いふかあい、まごころを蹂躙するような悪漢は、のろって、のろって、のろい殺してやるから、そう思え! な・・・ 太宰治 「律子と貞子」
出典:青空文庫