・・・立ちどまってみると、ぼくのからだはぶるぶるふるえて、ひざ小僧と下あごとががちがち音を立てるかと思うほどだった。急に家がこいしくなった。おばあさまも、おとうさんも、おかあさんも、妹や弟たちもどうしているだろうと思うと、とてもその先までどなって・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・ 吉弥は片足を一歩踏み出すと同時に、あごをもよほど憎らしそうに突き出して、くやしがった。その様子が大変おかしかったので、一同は言い合わせたように吹き出した。かの女もそれに釣り込まれて、笑顔を向け、炉のそばに来て座を取った。 薬罐のく・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 博物の教師は、あごにひげをはやしている、きわめて気軽な人でありましたが、いつも剥製の鳥を、なんだろう? ついぞ見たことのない鳥だが、と思っていました。男が、気むずかしい顔をして仕事をしているので、つい口を出さずにいましたが、ある日のこ・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・のこぎり魚はそこへ無理やりに首を突っこんで引き出したものですから、すっかりあごをいためてしまいました。ですからその魚のあごは、今だに長短かになっています。 ウイリイはその鍵を受取って、王女に知られないようにかくしておきました。 船は・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・寒いのと、おそらくひもじいのと両方で、からだをぶるぶるふるわせ、下あごをがたがたさせながら、引きつれたような、ぐったりした顔をして、じろじろと、かぎにかかった肉を見つめています。 肉屋は、おどけた目つきをして、ちょいちょいそのやせ犬を見・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・ああ、そうだよ、狐の子だよ。あごがとがって、皺だらけの顔で一日中ヒイヒイ泣いているんだ。見せてあげましょうかね。それでも、あたしたちは我慢しているんだ。それをお前たちは、なんだい」といいかけた時、空襲警報が出て、それとほとんど同時に爆音が聞・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・オベリスクやエッフェル塔が空中でとんぼ返りをしたりする滑稽でも、要領がよいのでくすぐりに落ちずして自然に人のあごを解くようなところがある。「制服の処女」とこの映画とを比べても実によくドイツ人の映画とフランス人の映画との対照がわかるような・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・首だけまっ白に塗ってあごから上の顔面は黄色ないしは桃色にして、そうして両方のたぼを上向きにひっくらかえしているのが田舎少年の目には不思議に思われた。それから、五丁目あたりの東側の水菓子屋で食わせるアイスクリームが当時の自分には異常に珍しくま・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・人間の横顔の額からあごまでの曲線を連ねて「音」にして聞き分けることも可能である。 近ごろのトーキー録音方法の中でも濃淡式でない曲線式のを使えばこれはきわめて容易である。まず試みに各社名宝のスターの「横顔の音」でも聞かせたらどうであろう。・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・ただし、左の下あごの犬歯の根だけ残っていたのが容易に抜けないので、がんじょうな器械を押し当ててぐいぐいねじられたときは顎骨がぎしぎし鳴って今にも割れるかと思うようで気持ちが悪かった。手術がすんだら看護婦が葡萄酒を一杯もって来て飲まされ、二三・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
出典:青空文庫