・・・ 二十前後の支那人は新らたに厚い帳簿をひろげ、何か口の中に読みはじめた。が、その帳簿をとざしたと思うと、前よりも一層驚いたように年とった支那人へ話しかけた。「駄目です。忍野半三郎君は三日前に死んでいます。」「三日前に死んでいる?・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ちょうど十日ばかり以前のある午後、僕等は海から上った体を熱い砂の上へ投げ出していた。そこへ彼も潮に濡れたなり、すたすた板子を引きずって来た。が、ふと彼の足もとに僕等の転がっているのを見ると、鮮かに歯を見せて一笑した。Mは彼の通り過ぎた後、ち・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・第一なたらの夜に捕われたと云うのは、天寵の厚い証拠ではないか? 彼等は皆云い合せたように、こう確信していたのである。役人は彼等を縛めた後、代官の屋敷へ引き立てて行った。が、彼等はその途中も、暗夜の風に吹かれながら、御降誕の祈祷を誦しつづけた・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・ただ、すすり上げて泣いている間に、あの人の口髭が私の耳にさわったと思うと、熱い息と一しょに低い声で、「渡を殺そうではないか。」と云う語が、囁かれたのを覚えている。私はそれを聞くと同時に、未に自分にもわからない、不思議に生々した心もちになった・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・あるいはまた、羅馬の兵卒たちの持っている楯が、右からも左からも、眩く暑い日の光を照りかえしていたかも知れない。が、記録にはただ、「多くの人々」と書いてある。そうして、ヨセフは、その「多くの人々の手前、祭司たちへの忠義ぶりが見せとうござったに・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・第一、ばかに暑い。それから、胃がしくしく、痛む。とうてい彼のしゃべる英語を、いちいち理解するほど、神経を緊張する気になれない。 そのうちに、船が動きだした。それも、はなはだ、緩慢な動き方で、船と波止場との間の水が少しずつ幅を広くしていく・・・ 芥川竜之介 「出帆」
・・・私の足がどんな所に立っているのだか、寒いのだか、暑いのだか、すこしも私には分りません。手足があるのだかないのだかそれも分りませんでした。 抜手を切って行く若者の頭も段々小さくなりまして、妹との距たりが見る見る近よって行きました。若者の身・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・不思議な感激――それは血のつながりからのみ来ると思わしい熱い、しかし同時に淋しい感激が彼の眼に涙をしぼり出そうとした。 厠に立った父の老いた後姿を見送りながら彼も立ち上がった。縁側に出て雨戸から外を眺めた。北海道の山の奥の夜は静かに深更・・・ 有島武郎 「親子」
・・・場主はやがて帳場を伴につれて厚い外套を着てやって来た。上座に坐ると勿体らしく神社の方を向いて柏手を打って黙拝をしてから、居合わせてる者らには半分も解らないような事をしたり顔にいい聞かした。小作者らはけげんな顔をしながらも、場主の言葉が途切れ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・いつもと違って人間の香がする。熱いので明けてある窓からは人の呼吸が静かに漏れる。人は皆な寝て居るのだ。犬は羨ましく思いながら番をして居る。犬は左右の眼で交る交る寝た。そうして何か物音がする度に頭を上げて、燐のように輝く眼をみひらいた。種々な・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
出典:青空文庫