・・・ その時、もう、これをして、瞬間の以前、立花が徒に、黒白も分かず焦り悶えた時にあらしめば、たちまち驚いて倒れたであろう、一間ばかり前途の路に、袂を曳いて、厚いふきを踵にかさねた、二人、同一扮装の女の童。 竪矢の字の帯の色の、沈んで紅・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・「おお、暑い、暑い。」「ああ暑い。」 もう飛ついて、茶碗やら柄杓やら。諸膚を脱いだのもあれば、腋の下まで腕まくりするのがある。 年増のごときは、「さあ、水行水。」 と言うが早いか、瓜の皮を剥くように、ずるりと縁台へ脱・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ と、扇子を抜いて、風をくれつつ、「私も暑い。赤いでしょう。」「しんは青くなっているんだよ……息が切れて倒れそうでね。」「おひや、ありますよ。」「有りますか。」「もう、二階ばかり上の高い処に、海老屋の屋根の天水桶の雪・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・と立ったり、居たり、歩行いたり、果は胡坐かいて能代の膳の低いのを、毛脛へ引挟むがごとくにして、紫蘇の実に糖蝦の塩辛、畳み鰯を小皿にならべて菜ッ葉の漬物堆く、白々と立つ粥の湯気の中に、真赤な顔をして、熱いのを、大きな五郎八茶碗でさらさらと掻食・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・…… いい天気で、暖かかったけれども、北国の事だから、厚い外套にくるまって、そして温泉宿を出た。 戸外の広場の一廓、総湯の前には、火の見の階子が、高く初冬の空を抽いて、そこに、うら枯れつつも、大樹の柳の、しっとりと静に枝垂れたのは、・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・天気のよいのに山路を急いだから、汗ばんで熱い。着物を一枚ずつ脱ぐ。風を懐へ入れ足を展して休む。青ぎった空に翠の松林、百舌もどこかで鳴いている。声の響くほど山は静かなのだ。天と地との間で広い畑の真ン中に二人が話をしているのである。「ほんと・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・畳一枚ほどに切れている細長い囲炉裡には、この暑いのに、燃木が四、五本もくべてあって、天井から雁木で釣るした鉄瓶がぐらぐら煮え立っていた。「どうも、毎度、子供がお世話になって」と、炉を隔てて僕と相対したお貞婆さんが改まって挨拶をした。・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・と、年子は、しぜんに熱い涙がわくのを覚えました。見ると先生のお目にも涙が光っていました。「ええ、なりたけどこへもいきませんわ。」 こう先生は、おっしゃいました。けれど、先生のお母さんと、弟さんとが、田舎の町にいらして、先生のお帰りを・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・また暑い日盛りごろ、旅人が店頭にきて休みました。そして、四方の話などをしました。しかし、その間だれも飴チョコを買うものがありませんでした。だから、天使は空へ上ることも、またここからほかへ旅をすることもできませんでした。月日がたつにつれて、ガ・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・寒い冬の夜も、また、暑い夏の日盛りもいとわずに働きました。そして、自分の家のために尽くしました。また、もう一度、失ったバイオリンを自分の手に買いもどして、それを弾きたいという望みばかりでありました。 けれど、あのバイオリンが、はたして、・・・ 小川未明 「海のかなた」
出典:青空文庫