・・・ 豊吉は善人である、情に厚い、しかし胆が小さい、と言うよりもむしろ、気が小さいので磯ぎんちゃくと同質である。 そこで彼は失敗やら成功やら、二十年の間に東京を中心としておもに東北地方を舞台に色んな事をやって見たが、ついに失敗に終わった・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・「森影暗く月の光を遮った所へ来たと思うと少女は卒然僕に抱きつかんばかりに寄添って『貴様母の言葉を気にして小妹を見捨ては不可ませんよ』と囁き、その手を僕の肩にかけるが早いか僕の左の頬にべたり熱いものが触て一種、花にも優る香が鼻先を掠め・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・私の枕元に参りまして、『お初にお目にかかります、私ことは大工助次郎と申しますもので、藤吉初めお俊がこれまでいろいろお世話様になりましたにつきましては、お礼の申し上げようもございません、別してお俊が厚いお情をこうむりました儀につきましては・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・二 慰問袋 壁の厚い、屋根の低い支那家屋は、内部はオンドル式になっていた。二十日間も風呂に這入らない兵士達が、高粱稈のアンペラの上に毛布を拡げ、そこで雑魚寝をした。ある夕方浜田は、四五人と一緒に、軍服をぬがずに、その毛布にご・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・仕方がない、そこへ茶をもって行った。熱いもぬるいも知らぬような風に飲んだ。顔色が冴えない、気が何かに粘っている。自分に対して甚しく憎悪でもしているかとちょっと感じたが、自分には何も心当りも無い。で、「どうかなさいましたか。」と訊く。・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ 控室には俺の外にコソ泥ていの髯をボウ/\とのばした厚い唇の男が、巡査に附き添われて検事の調べを待っていた。俺は腹が減っているようで、食ってみると然しマンジュウは三つといかなかった。それで残りをその男にやった。「髯」は見ている間に、ムシ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・いてしまうし、朝起きてみると蒲団の息のかゝったところ一面が真白にガバ/\に凍えている、夜中に静かになると、突然ビリン、ビリンともののわれる音がする、家をすっかり閉め切って、ストーヴをドシ/\燃しても、暑いのはストーヴに向いている身体の前の方・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・を送ることをするようなお前の母は、冬がくると家中のものに、二枚の蒲団を一枚にさせ、厚い蒲団を薄い蒲団にさせた。なかにいるお前のことを考えてのことなのだ。それでも、母が安心していることは、こっちの冬に二十何年も慣れたお前は、キットそこなら呑気・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・遠慮のない大陸的なヤケに熱い太陽で、その辺から今にもポッポッと火が出そうに思われた。それで、その高地を崩していた土方は、まるで熱いお湯から飛びだしてきたように汗まみれになり、フラフラになっていた。皆の眼はのぼせて、トロンとして、腐った鰊のよ・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・この稀な大暑を忘れないため、流しつづけた熱い汗を縁側の前の秋草にでも寄せて、寝言なりと書きつけようと思う心持をもその時に引き出された。ことしのような年もめずらしい。わたしの住む町のあたりでは秋をも待たないで枯れて行った草も多い。坂の降り口に・・・ 島崎藤村 「秋草」
出典:青空文庫