・・・などの合本になった、水泡集と云ったと思うエビ茶色のローズの厚い本。『太陽』の増刊号。これらの雑誌や本は、はじめさし絵から、子供であったわたしの生活に入って来ている。くりかえし、くりかえしさし絵を見て、これ何の絵? というようなことを母にきい・・・ 宮本百合子 「新しい文学の誕生」
・・・ 蒸暑い日の日盛りに、車で風を切って行くのは、却て内にいるよりは好い心持であった。田と田との間に、堤のように高く築き上げてある、長い長い畷道を、汗を拭きながら挽いて行く定吉に「暑かろうなあ」と云えば「なあに、寝ていたって、暑いのは同じ事・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・ 綾小路は椅背に手を掛けたが、すぐに据わらずに、あたりを見廻して、卓の上にゆうべから開けたままになっている、厚い、仮綴の洋書に目を着けた。傍には幅の広い篦のような形をした、鼈甲の紙切小刀が置いてある。「又何か大きな物にかじり附いているね・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ 今日の主人増田博士の周囲には大学時代からの親友が二三人、製造所の職員になっている少壮な理学士なんぞが居残って、燗の熱いのをと命じて、手あきの女中達大勢に取り巻かれて、暫く一夕の名残を惜んでいる。 花房という、今年卒業して製造所に這・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・それだのに涙腺は無理に門を開けさせられて熱い水の堰をかよわせた。 このままでややしばらくの間忍藻は全く無言に支配されていたが、その内に破裂した、次の一声が。「武芸はそのため」 その途端に燈火はふっと消えて跡へは闇が行きわたり、燃・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・安次が死んどる。熱いお粥食わそう思って持っててやったのに、死んどるわア。」と叫びながら、秋三の家の裏口から馳け込んだ。 お霜の叫びに納戸からお留が出て来た。秋三は藁小屋から飛び出て来た。そして二人が安次の小屋へ馳けて行くと、お霜はそのま・・・ 横光利一 「南北」
・・・疏水の両側の角刈にされた枳殻の厚い垣には、黄色な実が成ってその実をもぎ取る手に棘が刺さった。枳殻のまばらな裾から帆をあげた舟の出入する運河の河口が見えたりした。そしてその方向から朝日が昇って来ては帆を染めると、喇叭のひびきが聞えて来た。私は・・・ 横光利一 「洋灯」
・・・その側には厚い書物が開けてある。卓の上のインク壺の背後には、例の大きい黒猫が蹲って眠っている。エルリングが肩の上には、例の烏が止まって今己が出し抜けに来た詫を云うのを、真面目な顔附で聞いていたが、エルリングが座を起ったので、鳥は部屋の隅へ飛・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・が、事実問題として、ああいう美しさが六月の太陽に照らされたほの暑い農村の美しさのすべてであるとは言えないであろう。小林氏にしてもあれ以外に多くの色や光や運動の美しさを認めたであろう。しかし氏はその内から一の情趣をつかんだ。そうしてそれを描き・・・ 和辻哲郎 「院展日本画所感」
・・・彼らは時に情の厚い誠実な男としてふるまう。そうして自らそうだと信じている。そこへある事件が起こる。彼らは極度の不誠実を現わす。しかもなお自ら誠実な男だと信じている。最も徹底したように見えるJにおいてさえもそうである。彼はその全興味を注いで、・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫