・・・ この三四ヵ月程の間に、彼は三四の友人から、五円程宛金を借り散らして、それが返せなかったので、すべてそういう友人の方面からは小田という人間は封じられて了って、最後にKひとりが残された彼の友人であった。で「小田は十銭持つと、渋谷へばかし行・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・またある一つの窓ではレシーヴァを耳に当てて一心にラジオを聴いている人の姿が見えた。その一心な姿を見ていると、彼自身の耳の中でもそのラジオの小さい音がきこえて来るようにさえ思われるのだった。 彼が先の夜、酔っていた青年に向かって、窓のなか・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・傲然として鼻の先にあしらうごとき綱雄の仕打ちには、幾たびか心を傷つけられながらも、人慣れたる身はさりげなく打ち笑えど、綱雄はさらに取り合う気色もなく、光代、お前に買って来た土産があるが、何だと思う。当てて見んか。と見向きもやらず。 善平・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ああこのごろ、年若き男の嘆息つきてこの木立ちを当てもなく行き来せしこと幾度ぞ。 水瀦に映る雲の色は心失せし人の顔の色のごとく、これに映るわが顔は亡友の棺を枯れ野に送る人のごとし。目をあげて心ともなく西の空をながむればかの遠き蒼空の一線は・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・飛鳥の子を養ひ、地を走る獣の子にせめられ候事、目も当てられず、魂も消えぬべくおぼえ候。其につきても母の御恩忘れ難し。……日蓮が母存生しておはせしに、仰せ候ひしことも、あまりに背き参らせて候ひしかば、今遅れ参らせて候が、あながちにくやしく覚え・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 二人の子供は、二三度、砂糖を少し宛分けてやると、それに味をつけて、与助が醤油倉の仕事から帰ると何か貰うことにした。彼の足音をきゝつけると、二人は、「お父う。」と、両手を差し出しながら早速、上り框にとんで来た。「お父う、甘いん。・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・それで順番に各自が宛がわれた章を講ずる、間違って居ると他のものが突込む、論争をする、先生が判断する、間違って居た方は黒玉を帳面に記されるという訳なのです。ですから、「彼奴高慢な顔をして、出来も仕無い癖にエラがって居る、一つ苦しめて遣れ」とい・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・やがてそれが溶け初める頃、復た先生は山歩きでもするような服装をして、人並すぐれて丈夫な脚に脚絆を当て、持病のリョウマチに侵されている左の手を懐に入れて歩いて来た。残雪の間には、崖の道まで滲み溢れた鉱泉、半ば出来た工事、冬を越しても落ちずにあ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・目を閉じて横の方へうんと投げて、どの見当で音がするか当ててみる。しなければするまで投げる。しまいには三つも四つも握ってむちゃくちゃに投げる。とうとう袂の底には、からからの藻草の切れと小砂とが残ったばかりである。 ふたたび白帆を見る。藤さ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・そうして八年前に私と、平凡な見合い結婚をして、もうその頃から既にそろそろ東京では貸家が少くなり、中央線に沿った郊外の、しかも畑の中の一軒家みたいな、この小さい貸家をやっと捜し当て、それから大戦争まで、ずっとここに住んでいたのです。 夫は・・・ 太宰治 「おさん」
出典:青空文庫