・・・ 新浴場の位置は略崖下の平地と定った。荒れるに任せた谷陰には椚林などの生い茂ったところもある。桜井先生は大尉を誘って、あちこちと見て廻った。今ある自分の書斎――その建物だけを、先生はこの鉱泉側に移そうという話を大尉にした。 対岸に見・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・それさえあれば己はあっちのリングの方にいる女きょうだいの処まで汽車で行かれるのだが。」 婆あさんは、目を小さくして老人の顔を見ていたが、一足傍へ歩み寄って、まだ詞の口から出ないうちに笑いかけて云った。「お前さんはケッセル町の錠前屋のロオ・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・この觀測につきては夙に西人が種々の科學的研究あり、又近く橋本〔増吉〕文學士の研究もあれど、卑見を以てするに、嵎夷、暘谷は東方日出の個所を指し、南交は南方、昧谷は西方日沒の處、朔方は北方を意味し、何れもある格段なる地理的地點を指したるものなり・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
・・・私があれほど止めたのに、お聞きにならないから。」と馬が言いました。「第一、その王女はまだ生きておいでになるのだろうか。」「御心配には及びません。私がちゃんとよくして上げましょう。」と馬が言いました。「王女は全く世界中で一ばん美し・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・「これは来る途中で海が荒れでもしたのに相違ない。何、私が殺されればそれでいいではないか。」とデイモンは獄卒に言いました。 ディオニシアスは、それ見ろと笑いました。そして、いよいよ今日の何時までにかえらなければお前を殺すからそう思えと・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・ああ、こんなことを言ってここで亭主の蔭事を言っては済まないわね。あれでも気の優しい素直な男だわ。お前さんもあんな男を亭主に持てば好かったのだわ。何を笑うの。それにね、あの人は堅いのよ。わたしより外の女に関係していないということは、わたし受け・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・「あれはなんですか、ママ」 おかあさんはなんと答えていいか知りませんでした。「あれが鳩の歌った天国ですか、いったい天国とはなんでしょう、ママ」「そこはね、みんながおたがいに友だちになって、悲しい事も争闘もしない所です」「・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・おまえとわかれて、たちどころに私は、チョッキのボタンを全部、むしり取ってしまって、それから煙草の吸殻を、かたっぱしから、ぽんぽんコーヒー茶碗にほうりこんでやった。あれは、愉快だった。実に、痛快であった。ひとりで、涙の出るほど、大笑いした。私・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・私は、荒れている灰色の海をちらと見ただけで、あきらめた。橋のたもとの望富閣という葦簾を張りめぐらせる食堂にはいり、ビイルを一本そう言った。ちろちろと舌でなめるが如く、はりあいのない呑みかたをしながら、乱風の奥、黄塵に烟る江の島を、まさにうら・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・「宜しい。それじゃあ、明日邸へ来てくれ給え。何もかも話して聞せるから。」中尉はくるりと背中を向けて、同僚と一しょに店を出て行った。 門口に出ると、旆騎兵中尉が云った。「あれは誰だい。君に、君だの僕だのという、あの小男は。」「・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
出典:青空文庫