・・・大きい鮟鱇が、腹の中へ、白張提灯鵜呑みにしたようにもあった。 こん畜生、こん畜生と、おら、じだんだを蹈んだもんだで、舵へついたかよ、と理右衛門爺さまがいわっしゃる。ええ、引からまって点れくさるだ、というたらな。よくねえな、一あれ、あれよ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・――ほかに鮟鱇がある、それだと、ただその腹の膨れたのを観るに過ぎぬ。実は石投魚である。大温にして小毒あり、というにつけても、普通、私どもの目に触れる事がないけれども、ここに担いだのは五尺に余った、重量、二十貫に満ちた、逞しい人間ほどはあろう・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・やがて見ろ、脂の乗った鮟鱇のひも、という珍味を、つるりだ。三の烏 いつの事だ、ああ、聞いただけでも堪らぬわ。(ばたばたと羽を煽二の烏 急ぐな、どっち道俺たちのものだ。餌食がその柔かな白々とした手足を解いて、木の根の塗膳、錦手の木の葉・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・随分大胆なのが、親子とも気絶しました。鮟鱇坊主と、……唯今でも、気味の悪い、幽霊の浜風にうわさをしますが、何の化ものとも分りません。―― といった場処で。――しかし、昨年――今度の漂流物は、そんな可厭らしいものではないので。……青竹の中・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
今を距ること三十余年も前の事であった。 今において回顧すれば、その頃の自分は十二分の幸福というほどではなくとも、少くも安康の生活に浸って、朝夕を心にかかる雲もなくすがすがしく送っていたのであった。 心身共に生気に充・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・冬初めに偶然ちょっと帰宅したときに、もうほとんど散ってしまったあとに、わずかに散り残って暗紅色に縮み上がった紅葉が、庭の木立ちを点綴しているのを見て、それでもやっぱり美しいと思ったことがあった。それっきり、ついぞ一度も自分の庭の紅葉というも・・・ 寺田寅彦 「庭の追憶」
・・・山並の彼方から、憤りのようにムラムラと湧いた雲が、性急な馳足で鈍重な湖面を圧包むと、もう私共は真個に暗紅の火花を散らす稲妻を眺めながら、逆落しの大雨を痛い程体中に浴びなければなりません。其の驟雨は、いつも彼方にのっしりと居坐ったプロスペクト・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・ 棧敷の内張も暗紅色、幾百の座席も暗紅色。その上すべての繰形に金が塗ってあるからけばけばしい、重いバルコニーの迫持の間にあって、重り合った群集の顔は暗紅色の前に蒼ざめ、奥へひっこみ、ドミエ風に暗い。数千のこのような見物に向って、オペラ用・・・ 宮本百合子 「シナーニ書店のベンチ」
・・・祭壇の後のステインド・グラスを透す暗紅紫色の光線はここまで及ばない。薄暗い御像の前の硝子壜に、目醒めるようなカリフォルニヤ・ポピーの一束が捧げてあるのが、いじらしい。隅に、紅金巾の帷を垂れた懺悔台がある。私共が御堂内にいる間に、女が二人参拝・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・ その三艘だけが、雲のために黝み始めた海上を、暗紅色の帆、オリーヴ色の帆、濡れた鼠の帆と連なって、進行して行く。 それ等が始め色が変ったと同じ順序で元のような普通の帆の色になったのは余程行ってからであった。 尾世川と藍子とは、最・・・ 宮本百合子 「帆」
出典:青空文庫