・・・と手を打ちながら、彼自身よりも背の高い、銀杏返しの下女を呼び出して来た。それから、――筋は話すにも足りない、一場の俄が始まった。 舞台の悪ふざけが加わる度に、蓆敷の上の看客からは、何度も笑声が立ち昇った。いや、その後の将校たちも、大部分・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・小さい笑窪のある両頬なども熟した杏のようにまるまるしている。……… 僕の父や母の愛を一番余計に受けたものは何と云っても「初ちゃん」である。「初ちゃん」は芝の新銭座からわざわざ築地のサンマアズ夫人の幼稚園か何かへ通っていた。が、土曜から・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・ああ、東京の町の音も全くどこかへ消えてしまう真夜中、涙に濡れた眼を挙げながら、うす暗い十燭の電燈の下に、たった一人逗子の海風とコルドヴァの杏竹桃とを夢みている、お君さんの姿を想像――畜生、悪意がない所か、うっかりしているとおれまでも、サンテ・・・ 芥川竜之介 「葱」
樹々の若葉の美しいのが殊に嬉しい。一番早く芽を出し始めるのは梅、桜、杏などであるが、常磐木が芽を出すさまも何となく心を惹く。 古葉が凋落して、新しい葉がすぐ其後から出るということは何となく侘しいような気がするものである。椿、珊・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・浅草の親戚を見舞うことは断念して松住町から御茶の水の方へ上がって行くと、女子高等師範の庭は杏雲堂病院の避難所になっていると立札が読まれる。御茶の水橋は中程の両側が少し崩れただけで残っていたが駿河台は全部焦土であった。明治大学前に黒焦の死体が・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・隣室の医科の男が雪ちゃんに命じて杏を買って来さして二人で食っていた。自分は dy をやりながら聞くともなしに二人の対話を聞いていたら、雪ちゃんの声で「……角の店のを食ったの。そりゃホントニおいしいのよ。オソラク」と云った。このオソラクが甲走・・・ 寺田寅彦 「雪ちゃん」
・・・四つ辻の赤いポストも美しく、煙草屋の店にいる娘さえも、杏のように明るくて可憐であった。かつて私は、こんな情趣の深い町を見たことがなかった。一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう。私は地理を忘れてしまった。しかし時間の計算から、それが私の・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ご自分の袖で童子の頭をつつむようにして、馬市を通りすぎてから河岸の青い草の上に童子を座らせて杏の実を出しておやりになりながら、しずかにおたずねなさいました。(お前はさっきどうして泣(だってお父さん。みんなが仔馬をむりに連(馬は仕・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・やっぱり巴丹杏やまるめろの歌は上手です。どうです。行って仲間にはいりましょうか。行きましょう。」「行きましょう。おおい。おいらも仲間に入れろ。痛い、畜生。」「どうかなさったのですか。」「眼をやられました。どいつかにひどく引っ掻か・・・ 宮沢賢治 「チュウリップの幻術」
つい先頃、或る友人があることの記念として私に小堀杏奴さんの「晩年の父」とほかにもう一冊の本をくれた。「晩年の父」はその夜のうちに読み終った。晩年の鴎外が馬にのって、白山への通りを行く朝、私は女学生で、彼の顔にふくまれている・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
出典:青空文庫