・・・私は坂田の胸中を想って暗然とした。同時に私はひそかにわが師とすがった坂田の自信がこんなに脆いものであったかと、だまされた想いにうろたえた。まるでもぬけの殻を掴まされたような気がし、私の青春もその対局の観戦記事が連載されていた一月限りのもので・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・私はこれをきき、そしていま、単身よく障碍を切り抜けて、折角名人位挑戦者になりながら、病身ゆえに惨敗した神田八段の胸中を想って、暗然とした。 東京の大阪に対する反感はかくの如きものであるか。しかし、私はこれはあくまで将棋界のみのこととして・・・ 織田作之助 「東京文壇に与う」
・・・四「俺の避難所はプアだけれど安全なものだ。俺も今こそかの芸術の仮面家どもを千里の遠くに唾棄して、安んじて生命の尊く、人類の運命の大きくして悲しきを想うことができる……」 寝間の粗壁を切抜いて形ばかりの明り取りをつけ、藁と・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ どうして俺が毎晩家へ帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、選りに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮かんで来るのか――おまえはそれがわからないと言ったが――そして俺にもやはりそれがわか・・・ 梶井基次郎 「桜の樹の下には」
・・・友達が連れて帰ってくれたのだったが、その友達の話によると随分非道かったということで、自分はその時の母の気持を思って見るたびいつも黯然となった。友達はあとでその時母が自分を叱った言葉だと言って母の調子を真似てその言葉を自分にきかせた。それは母・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・倶楽部員は二郎の安全を祝してみな散じゆき、事務室に居残りしは幹事後藤のみとなりぬ。十蔵は受付の卓に倚りて煙草を吹かし、そのさまわがこの夜倶楽部に来し時と変わらず見えたり、ただ口元なる怪しき微笑のみ消えざるぞあやしき。 余は二郎とともに倶・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・純真な娘であることが、やはり一番安全であるということになるのだ。「これは変だな」と思うようだったら、どこかあやしいのである。しかし自分の心に曇りがあれば、相手に乗じられて、相手の擬装が見わけられないようになる。欲心とうぬぼれとは最もよくない・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・ だが、その時、銃を取った大西上等兵と浜田一等兵は、安全装置を戻すと、直ちに、×××××××××をねらって引鉄を引いた。 黒島伝治 「前哨」
・・・しかしまた振り返って自分等が住んでいた甲斐の国の笛吹川に添う一帯の地を望んでは、黯然としても心も昧くなるような気持がして、しかもその薄すりと霞んだ霞の底から、桑を摘め摘め、爪紅さした、花洛女郎衆も、桑を摘め。と清い清・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 彼はまた黙った。 今日も鮒を一尾ばかり持って帰ったら叱られやしないかネ。 彼は黯然とした顔になったが、やはり黙っていた。その黙っているところがかえって自分の胸の中に強い衝動を与えた。 お父さんはいるのかい。 ウン、いる・・・ 幸田露伴 「蘆声」
出典:青空文庫