・・・ 忘れちゃいけないよ」 印度人の婆さんは、脅すように指を挙げました。「又お前がこの間のように、私に世話ばかり焼かせると、今度こそお前の命はないよ。お前なんぞは殺そうと思えば、雛っ仔の頸を絞めるより――」 こう言いかけた婆さんは、・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・いささかでも監督に対する父の理解を補おうとする言葉が彼の口から漏れると、父は彼に向かって悪意をさえ持ちかねないけんまくを示したからだ。彼は単に、農場の事務が今日までどんな工合に運ばれていたかを理解しようとだけ勉めた。彼は五年近く父の心に背い・・・ 有島武郎 「親子」
・・・お母あさんも、みんなも、もう庭へ出てはいけません。本当に憎らしい犬だよ」といった。 夜になって犬は人々の寝静まった別荘の側に這い寄って、そうして声を立てずにいつも寝る土の上に寝た。いつもと違って人間の香がする。熱いので明けてある窓からは・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・私も「吾々の詩はこのままではいけぬ」とは漠然とながら思っていたが、しかしその新らしい輸入物に対しては「一時の借物」という感じがついて廻った。 そんならどうすればいいか? その問題をまじめに考えるには、いろいろの意味から私の素養が足らなか・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ ――松村さん、木戸まで急用―― いけ年を仕った、学芸記者が馴れない軽口の逃口上で、帽子を引浚うと、すっとは出られぬ、ぎっしり詰合って飲んでいる、めいめいが席を開き、座を立って退口を譲って通した。――「さ、出よう、遅い遅い。」悪くす・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・人間の自然性だの性欲の満足だのとあまり流行臭い思想で浅薄に解し去ってはいけない。 世に親というものがなくなったときに、われらを産んでわれらを育て、長年われらのために苦労してくれた親も、ついに死ぬ時がきて死んだ。われらはいま多くのわが子を・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・「来たら、いけないの?」ぴッたり、僕のそばにからだを押しつけて坐った。それッきりで、目が物を言っていた。僕はその頸をいだいて口づけをしてやろうとしたら、わざとかおをそむけて、「厭な人、ね」「厭なら来ないがいい、さ」「それでも・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・これではいけないと思って、ふたたび静かなところに出て耳を澄ましますと、またはっきりと、よい音が聞こえてきましたから、今度は、その音のする方へずんずん歩いていきました。いつしか日はまったく暮れてしまって、空には月が出ました。 さよ子は、か・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・何だか心寂しくっていけねえ。」といつもにもないことを言う。「どうかしたんですか。」と私も怪しむと、「なあにね、いろんな事を考えこんでしまって、変な気持になったのさ。」と苦笑いをして、「君は幾歳だったっけね。」「十九です。」・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・空気の流通をよくしなければいけないんです」 すると、女の顔に思いがけぬ生気がうかんだ。「やっぱり御病気でしたの。そやないかと思てましたわ。――ここですか」 女は自身の胸を突いた。なぜだか、いそいそと嬉しそうであった。「ええ」・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫