・・・見よ、彼らの亡国的感情が、その祖先が一度遭遇した時代閉塞の状態に対する同感と思慕とによって、いかに遺憾なくその美しさを発揮しているかを。 かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければなら・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ もしも又、私が此処に指摘したような性急な結論乃至告白を口にし、筆にしながら、一方に於て自分の生活を改善するところの何等かの努力を営み――仮令ば、頽廃的という事を口に讃美しながら、自分の脳神経の不健康を患うて鼻の療治をし、夫婦関係が無意・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・自由に対する慾望とは、啻に政治上または経済上の束縛から個人の意志を解放せむとするばかりでなく、自己みずからの世界を自己みずからの力によって創造し、開拓し、司配せんとする慾望である。我みずから我が王たらんとし、我がいっさいの能力を我みずから使・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・あの低い松の枝の地紙形に翳蔽える葉の裏に、葦簀を掛けて、掘抜に繞らした中を、美しい清水は、松影に揺れ動いて、日盛にも白銀の月影をこぼして溢るるのを、広い水槽でうけて、その中に、真桑瓜、西瓜、桃、李の実を冷して売る。…… 名代である。・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・お傍医師が心得て、……これだけの薬だもの、念のため、生肝を、生のもので見せてからと、御前で壺を開けるとな。……血肝と思った真赤なのが、糠袋よ、なあ。麝香入の匂袋ででもある事か――坊は知るまい、女の膚身を湯で磨く……気取ったのは鶯のふんが入る・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・河童だい、あかんべい、とやった処が、でしゅ……覗いた瞳の美しさ、その麗さは、月宮殿の池ほどござり、睫が柳の小波に、岸を縫って、靡くでしゅが。――ただ一雫の露となって、逆に落ちて吸わりょうと、蕩然とすると、痛い、疼い、痛い、疼いッ。肩のつけも・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ という中にも、随分気の確な女、むずかしく謂えば意志が強いという質で、泣かないが蒼くなる風だったそうだから、辛抱はするようなものの、手元が詰るに従うて謂うまじき無心の一つもいうようになると、さあ鰌は遁る、鰻は辷る、お玉杓子は吃驚する。・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・……主人が医師の出来損いですから、出来損いでも奥さん。……さしあたってな小博打が的だったのですから、三下の潜りでも、姉さん。――話のついでですが、裸の中の大男の尻の黄色なのが主人で、汚れた畚褌をしていたのです、褌が畚じゃ、姉ごとは行きません・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・紅蓮の花びらをとかして彩色したように顔が美しい。わりあいに顔のはば広く、目の細いところ、土佐絵などによく見る古代女房の顔をほんものに見る心持ちがした。富士のふもと野の霜枯れをたずねてきて、さびしい宿屋に天平式美人を見る、おおいにゆかいであっ・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・自分もいまさらのごとくわが不注意であったことが悔いられる。医師はそのうち帰ってしまわれた。 近所の人々が来てくれる。親類の者も寄ってくる。来る人ごとに同じように顛末を問われる。妻は人のたずねに答えないのも苦しく、答えるのはなおさら苦しい・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
出典:青空文庫