・・・もっと、いじらしい、懸命な思いで私の傍にいてくれたのかも知れない。女房は私を、だましていなかった。私は悪い。けれども、それだけの話だ。私は女房に、どんな応答をしたらいいのか。私はおまえを愛していない。けれども、それは素知らぬ振りして、一生お・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・少しでも、いじらしいとお思いになったら、御返事を下さい。二十年間を、決して押売りするわけではございませんが、もういまは、私の永い抑制を破り、思い切って訴える時のようであります。どうか、失礼の段は、おゆるし下さい。 私の最近の短篇小説集、・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・こういうけなげな姿を見ては、釣る気にならない。食いしん坊だから、糸をたれさえすれば釣れるが、こういうときには遠慮するのである。こういういじらしい父性愛――それも私に似ているか、どうか。あまりいうと、女房に悪いから結論は出さないでおこう。・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・家を焼くお七の心がいじらしいだけそれだけ、死に臨んだお七の心の中があわれであわれで悲しくてたまらん。死に近づく彼女の心の中は果してどんなであったろう。初より条理以外に成立して居る恋は今更条理を考えて既往を悔む事はないはずだ。ある時はいとしい・・・ 正岡子規 「恋」
・・・シグナレスはしくしく泣きながら、ちょうどやって来る二時の汽車を迎えるためにしょんぼりと腕をさげ、そのいじらしいなで肩はかすかにかすかにふるえておりました。空では風がフイウ、涙を知らない電信柱どもはゴゴンゴーゴーゴゴンゴーゴー。 さあ・・・ 宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」
・・・日本の親のいじらしい心は、他の半面で、日本の軍国主義社会を支え維持させて行く大きな経済的社会的基盤となった。というのは「うちの息子は学問ができて人物もしっかりしているのに、金がないばかりに大学へやれない。知事や大臣にはなれなくても、せめて軍・・・ 宮本百合子 「新しいアカデミアを」
・・・ その新帰朝者という人は、こういう若い女性のいじらしい大努力に立つ計画性にはふれていない生活環境にいるのでしょう。彼の周囲には、ぐちをいいいいプカプカたかいタバコをすっている男たちがおり、彼のひらく雑誌は、抽象的論議だらけの旧型綜合雑誌・・・ 宮本百合子 「新しい卒業生の皆さんへ」
・・・ 今の時代の十九の、故郷を出奔した娘が此那大きな人形を抱いて来ると想像出来ようか。いじらしいような心持と、わざとらしさを嫌う心持が交々さほ子の心に湧いた。 千代は、その人形を見せ、彼女に国の話をきかせた。 千代の話によれば、彼女・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・なるたけ歩くけれど、遠いところは乗りたいという、いじらしい答えをする夜の女が日本のほかのどこにいるだろう。 こういう娘たちの大部分は戦争中、徴用で軍需工場に働いていた。そのときの彼女たちは、断髪に日の丸はちまきをしめて、日本の誇る産業戦・・・ 宮本百合子 「偽りのない文化を」
・・・ 世にいじらしい物はいくらもあるが、愁歎の玉子ほどいじらしい物はない。すでに愁歎と事がきまればいくらか愁歎に区域が出来るが、まだ正真の愁歎が立ち起らぬその前に、今にそれが起るだろうと想像するほどいやに胸ぐるしいものはない。このような時に・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫