・・・矢は蝟毛の如く的に立っても、予は痛いとも思わなかった。人が鴎外という影を捉えて騒いだ時も、その騒ぎの止んだ後も、形は故の如くで、我は故の我である。啻に故の我なるのみでは無い、予はその後も学んでいて、その進歩は破鼈の行くが如きながらも、一日を・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・「エヘエヘエヘエヘ。」 物音を聞きつけて灸の母は馳けて来た。「どうしたの、どうしたの。」 母は灸を抱き上げて揺ってみた。灸の顔は揺られながら青くなってべたりと母親の胸へついた。「痛いか、どこが痛いの。」 灸は眼を閉じ・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・諧謔で相手の言い草をひっくり返すというような機鋒はなかなか鋭かったが、しかし相手の痛いところへ突き込んで行くというような、辛辣なところは少しもなかった。むしろ相手の心持ちをいたわり、痛いところを避けるような心づかいを、行き届いてする人であっ・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫