・・・綱利は彼の槍術を賞しながら、この勝負があった後は、甚不興気な顔をしたまま、一言も彼を犒わなかった。 甚太夫の負けざまは、間もなく蔭口の的になった。「甚太夫は戦場へ出て、槍の柄を切り折られたら何とする。可哀や剣術は竹刀さえ、一人前には使え・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・顔は一見ゴリラに似た、東北生れの野蛮人なのです。しかし目だけは天才らしい閃きを持っているのですよ。彼の目は一塊の炭火のように不断の熱を孕んでいる。――そう云う目をしているのですよ。 主筆 天才はきっと受けましょう。 保吉 しかし妙子・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
序 これはある精神病院の患者、――第二十三号がだれにでもしゃべる話である。彼はもう三十を越しているであろう。が、一見したところはいかにも若々しい狂人である。彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでもよい。彼はただじっと両膝・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・行く前にもう一言お前に言っておくが」 そういう発端で明日矢部と会見するに当たっての監督としての位置と仕事とを父は注意し始めた。それは懇ろというよりもしちくどいほど長かった。監督はまた半時間ぐらい、黙ったまま父の言いつけを聞かねばならなか・・・ 有島武郎 「親子」
・・・そしてそれは一見そう見えたに違いない。なぜならば、実行に先立って議論が戦わされねばならぬ時期にあっては、労働者は極端に口下手であったからである。彼らは知らず識らず代弁者にたよることを余儀なくされた。単に余儀なくされたばかりでなく、それにたよ・・・ 有島武郎 「宣言一つ」
・・・これは一見きわめて英雄的な態度のように見える。しかしながら本当に考えてみると、その人の生活に十分の醇化を経ていないで、過去から注ぎ入れられた生命力に漫然と依頼しているのが発見されるだろう。彼が現在に本当に立ち上がって、その生命に充実感を得よ・・・ 有島武郎 「想片」
・・・それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的な・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ ものの情深く優しき声して、「待遠かったでしょうね。」 一言あたかも百雷耳に轟く心地。「おお、もう駒を並べましたね、あいかわらず性急ね、さあ、貴下から。」 立花はあたかも死せるがごとし。「私からはじめますか、立花さん・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・いかほ野やいかほの沼のいかにして 恋しき人をいま一見見む大正三年一月 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・その瞬時真白なる細き面影を一見して、思わず悚然としたまわんか。トタンに件の幽霊は行燈の火を吹消して、暗中を走る跫音、遠く、遠く、遠くなりつつ、長き廊下の尽頭に至りて、そのままハタと留むべきなり。 夜はいよいよ更けて、風寒きに、怪者の再来・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
出典:青空文庫