・・・あくる朝、私たちはかえりの自動車のなかで、黙っていた。一口でも、ものを言えば殴り合いになりそうな気まずさ。自動車が浅草の雑沓のなかにまぎれこみ、私たちもただの人の気楽さをようやく感じて来たころ、馬場はまじめに呟いた。「ゆうべ女のひとがね・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・三方四方がめでたく納まった話であるから、チルナウエルは生涯人に話しても、一向差支はないのである。 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ 岩塊の頂で偶然友人N君の一行に逢った。その案内で程近い洞穴の底に雪のある冷泉を紹介された。小さな洞穴の口では真冬の空気と真夏の空気が戦って霧を醸していた。N君からはまた浅間葡萄という高山植物にも紹介された。われわれの「葡萄」に比べると・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・学校の先生らしい一行があとから自分らを追越して行った。 明神池は自分には別に珍しい印象を与えなかった。何となく人工的な感じのする点がこの池を有名にしているかと思われた。しかし、紅葉の季節に見直すといいかもしれない。同じ道を引返して帝国ホ・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・ この絵には別にこれと云って手っ取り早く感心しなければならないような、一口ですぐ云ってしまわれるような趣向やタッチが、少なくも私には目に立たない。それだけ安易な心持で自然に額縁の中の世界へ這入って行けるように思う。じっと見ていると、何か・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・ 宅へ帰って昼飯を食いながら、今日のアドヴェンチュアーを家人に話したが、誰も一向何とも云ってくれなかった。 庭に下りて咲きおくれた金蓮花とコスモスを摘んだ。それをさっき買った来た白釉の瓶に投げ込んで眺めているといい気持になった。・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・それを一口飲んだ時の頬の筋肉の動きにちょっと説明のできない真実味があると思った。 病犬を射殺するやや感傷的な場面がある。行きには人と犬との足跡のついた同じ道を帰りはただ人だけが帰ってくるのである。安価な感傷と評した人もあったがしかしそれ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・あえて本誌の読者の一考を煩わしたいと思った次第である。 寺田寅彦 「教育映画について」
・・・識者の一考を望みたい。 三 ラディオフォビア 初めてラディオを聞いたのは上野のS軒であったと思う。四五人で食事をしたあと、客室でのんきにおもしろく話をしていると、突然頭の上でギアーギアーギアーギアーと四つ続けて妙な声・・・ 寺田寅彦 「路傍の草」
・・・どんな大将だって初めは皆な少尉候補生から仕上げて行くんだから、その点は一向差閊えない。十分やって行けるようにするからと云うんで、世帯道具や何や彼や大将の方から悉皆持ち込んで、漸くまあ婚礼がすんだ。秋山さんは間もなく中尉になる、大尉になる。出・・・ 徳田秋声 「躯」
出典:青空文庫