・・・丹精一心の兄夫婦も、今朝はいくらかゆっくりしたらしく、雨戸のあけかたが常のようには荒くない。省作も母が来て起こすまでは寝かせて置かれた。省作が目をさました時は、満蔵であろう、土間で米を搗く響きがずーんずーと調子よく響いていた。雨で家にいると・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ひた赤く赤いばかりで光線の出ない太陽が今その半分を山に埋めかけた処、僕は民子が一心入日を拝むしおらしい姿が永く眼に残ってる。 二人が余念なく話をしながら帰ってくると、背戸口の四つ目垣の外にお増がぼんやり立って、こっちを見て居る。民子は小・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・それで斎藤の一条以来、土屋の家では、例の親父が怒って怒って始末におえぬということを聞いて、どうにか話をしてやりたく思ってるものの、おとよの一身に関することは、世間晴れての話でないから、親類とてめったな話もできずにおったところ、省作の家の人た・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ いッそ、かの女の思うままになっているくらいなら、むずかしいしかもあやふやな問題を提出して、吉弥に敬して遠ざけられたり、その親どもにかげで嫌われたりするよりか、全く一心をあげて、かの女の真情を動かした方がよかろうとも思った。 僕の胸はい・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ こんなくだらない物思いに沈んでいるよりも、しばらく怠っていた海水浴でもして、すべての考えを一新してしまおうかと思いつき、まず、あぐんでいる身体を自分で引き立て、さんざんに肘を張って見たり、胸をさすって見たり、腕をなぐって見たりしたが、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 世の中には行詰った生活とか生の悶えとか言うヴォヤビュラリーをのみ陳列して生活の苦痛を叫んでるものは多いが、その大多数は自己一身に対しては満足して蝸殻の小天地に安息しておる。懐疑といい疑惑というもその議論は総てドグマの城壁を固めて而して・・・ 内田魯庵 「二葉亭四迷」
・・・されて政治が休息期に入ったからだが、一つは当時の欧化熱が文芸を尊重する欧米の空気を注入して、政治家もまた靖献遺言的志士形気を脱してジスレリーやグラッドストーン、リットンやユーゴーらの操觚者と政治家とを一身に兼ぬる文明的典型を学ぶようになった・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・トーヴァルセンを出して世界の彫刻術に一新紀元を劃し、アンデルセンを出して近世お伽話の元祖たらしめ、キェルケゴールを出して無教会主義のキリスト教を世界に唱えしめしデンマークは、実に柔和なる牝牛の産をもって立つ小にして静かなる国であります。・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・ 神さまの評判は、このように高くなりましたけれど、だれも、ろうそくに一心をこめて絵を描いている娘のことを、思うものはなかったのです。したがって、その娘をかわいそうに思った人はなかったのであります。娘は、疲れて、おりおりは、月のいい夜に、・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
・・・ 神様の評判はこのように高くなりましたけれど、誰も、蝋燭に一心を籠めて絵を描いている娘のことを思う者はなかったのです。従ってその娘を可哀そうに思った人はなかったのであります。 娘は、疲れて、折々は月のいい夜に、窓から頭を出して、遠い・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
出典:青空文庫