・・・を束ねて、ぼんやり客俟の誰彼時、たちまちガラ/\ツとひきこみしは、たしかに二人乗の人力車、根津の廓からの流丸ならずば権君御持参の高帽子、と女中はてん/″\に浮立つゝ、貯蓄のイラツシヤイを惜気もなく異韻一斉さらけだして、急ぎいでむかへて二度吃・・・ 永井荷風 「上野」
・・・と父は鋭い叱の一声。然し、母上は懐の片手を抜いて、静に私の頭を撫で、「また、狐が出て来ました。宗ちゃんの大好きなを喰べてしまったんですって。恐いじゃありませんか。おとなしくなさい。」 雪は紛々として勝手口から吹き込む。人達の下駄の歯・・・ 永井荷風 「狐」
・・・吉原は大江戸の昔よりも更に一層の繁栄を極め、金瓶大黒の三名妓の噂が一世の語り草となった位である。 両国橋には不朽なる浮世絵の背景がある。柳橋は動しがたい伝説の権威を背負っている。それに対して自分は艶かしい意味においてしん橋の名を思出す時・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・鉄漿溝は泡立ッたまま凍ッて、大音寺前の温泉の烟は風に狂いながら流れている。一声の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る見る中に岡の裾を繞ッて、根岸に入ッたかと思うと、天王寺の森にその煙も見えなくなッた。 この文を読・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・しかし自分は無論己れを一世の大詩人に比して弁解しようというのではない。唯晩年には Sagesse の如き懺悔の詩を書いた人にも或時はかかる事実があったものかと不思議に感じた事を語るに過ぎぬのである。 私は毎年の暑中休暇を東京に送り馴れた・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・その跫音がその姿と共に、橋の影を浮べた水の面をかすかに渡って来るかと思うと忽ち遠くの工場から一斉に夕方の汽笛が鳴り出す……。わたくしは何となくシャルパンチエーの好んで作曲するオペラでもきくような心持になることができた。 セメントの大通は・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・そうして一声も鳴かなかった。「おっつあん、うまくいっちゃった」と先刻の対手は釣してある蓆から首を突っ込んだ。蚊帳の中は動かない。彼は太十の蚊帳をまくった。太十は凝然と目をしかめて居る。「おっつあん、ありゃどうしたもんだべな」・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・粟粒芥顆のうちに蒼天もある、大地もある。一世師に問うて云う、分子は箸でつまめるものですかと。分子はしばらく措く。天下は箸の端にかかるのみならず、一たび掛け得れば、いつでも胃の中に収まるべきものである。 また思う百年は一年のごとく、一年は・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・「一声でほととぎすだと覚る。二声で好い声だと思うた」と再び床柱に倚りながら嬉しそうに云う。この髯男は杜鵑を生れて初めて聞いたと見える。「ひと目見てすぐ惚れるのも、そんな事でしょか」と女が問をかける。別に恥ずかしと云う気色も見えぬ。五分刈・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・と父君と母上に向って動議を提出する、父君と母上は一斉に余が顔を見る、余ここにおいてか少々尻こそばゆき状態に陥るのやむをえざるに至れり、さりながら妙齢なる美人より申し込まれたるこの果し状を真平御免蒙ると握りつぶす訳には行かない、いやしくも文明・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
出典:青空文庫