・・・ 男はわざと元気よく、「そんなら俺も安心だ、お前とこの新さんとはまんざら知らねえ中でもねえし、これを縁に一層また近しくもしてもらおう。知っての通り、俺も親内と言っちゃ一人もねえのだから、どうかまあ親類付合いというようなことにね……そこで・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・みはって、女の顔を見てやろうとしたが、矢張お召縮緬の痩躯な膝と、紫の帯とが見ゆるばかりで、如何しても頭が枕から上らないから、それから上は何にも解らない、しかもその苦しさ切無さといったら、昨夜にも増して一層に甚しい、その間も前夜より長く圧え付・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・男の方がずっと小柄で、ずっと若く見え、湯殿のときとちがって黒縁のロイド眼鏡を掛けているため、一層こぢんまりした感じが出ていた。顔の造作も貧弱だったが、唇だけが不自然に大きかった。これは女も同じだった。女の唇はおまけに著しく歪んでいた。それに・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・たり油粕までやって世話した甲斐もなく、一向に時が来ても葉や蔓ばかし馬鹿延びに延びて花の咲かない朝顔を余程皮肉な馬鹿者のようにも、またこれほど手入れしたその花の一つも見れずに追い立てられて行く自分の方が一層の惨めな痴呆者であるような気もされた・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 傾斜についている路はもう一層軟かであった。しかし自分は引返そうとも、立留って考えようともしなかった。危ぶみながら下りてゆく。一と足下りかけた瞬間から、既に、自分はきっと滑って転ぶにちがいないと思った。――途端自分は足を滑らした。片手を・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・過分の茶代に度を失いたる亭主は、急ぎ衣裳を改めて御挨拶に罷り出でしが、書記官様と聞くよりなお一層敬い奉りぬ。 琴はやがて曲を終りて、静かに打ち語らう声のたしかならず聞ゆ。辰弥も今は相対う風色に見入りて、心は早やそこにあらず。折しも障子は・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・現在の社会ではいわゆる婦人の権利拡張の闘争から手を引くことは、一層鎖を重くすることになるが、理想的国家では、処女性、母性、美容の保護、ならびに、これと矛盾しない仕事しかしないということが婦人の天与の権利でなくてはならぬ。そしてこれを保証する・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・して、風波を喜ぶ荒々しき性格であるかのように見ゆる誤解は、この身延の隠棲九年間の静寂と、その間に諸国の信徒や、檀那や、故郷の人々等へ書かれた、世にもやさしく美しく、感動すべき幾多の消息によって、完全に一掃されるのである。それとともに、彼の立・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 山のひだは、一層、雪が深かった。松木と武石とは、銃を杖にしてよじ登った。そこには熊の趾跡があった。それから、小さい、何か分らぬ野獣の趾跡が到るところに印されていた。蓬が雪に蔽われていた。灌木の株に靴が引っかかった。二人は、熱病のように・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・不明瞭な点を残さず、悉くそれを赤ときめて、一掃してしまえば功績も一層水際立って司令部に認められる。 大隊長は、そのへんのこつをよくのみこんでいた。彼は先ず武器を押収することを命じた。それから、パルチザンを、捕虜とすることを命じた。それか・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
出典:青空文庫