・・・お悦は真赤な頬をふくらし乳母も共々、私に向って、狐つき、狐の祟り、狐の人を化す事、伝通院裏の沢蔵稲荷の霊験なぞ、こまごまと話して聞かせるので、私は其頃よく人の云うこっくり様の占いなぞ思合せて、半ばは田崎の勇に組して、一緒に狐退治に行きたいよ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・辻を北に取れば竜泉寺の門前を過ぎて千束稲荷の方へ抜け、また真直に西の方へ行けば、三島神社の石垣について阪本通へ出るので、毎夜吉原通いの人力車がこの道を引きもきらず、提灯を振りながら走り過るのを、『たけくらべ』の作者は「十分間に七十五輌」と数・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・その鄰りに常夜燈と書いた灯を両側に立て連ね、斜に路地の奥深く、南無妙法蓮華経の赤い提灯をつるした堂と、満願稲荷とかいた祠があって、法華堂の方からカチカチカチと木魚を叩く音が聞える。 これと向合いになった車庫を見ると、さして広くもない構内・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・ * 夕暮よりも薄暗い入梅の午後牛天神の森蔭に紫陽花の咲出る頃、または旅烏の啼き騒ぐ秋の夕方沢蔵稲荷の大榎の止む間もなく落葉する頃、私は散歩の杖を伝通院の門外なる大黒天の階に休めさせる。その度に堂内に安置された・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・ちょいと向の御稲荷さまなんていう事は知らないんだ。御話にゃならない。大工や植木屋で、仕事をしたことを全部完成ですと言った奴があるよ。銭勘定は会計、受取は請求というのだったな。」 唖々子の戯るるが如く、わたしはやがて女中に会計なるものを命・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・ 七 忍が岡と太郎稲荷の森の梢には朝陽が際立ッて映ッている。入谷はなお半分靄に包まれ、吉原田甫は一面の霜である。空には一群一群の小鳥が輪を作ッて南の方へ飛んで行き、上野の森には烏が噪ぎ始めた。大鷲神社の傍の田甫の白鷺・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ことごとく歌よみいでし顔を見てやをら晩食の折敷ならぶる汁食とすすめめぐりてとぼしたる火もきえぬべく人突あたる戸をあけて還る人々雪しろくたまれりといひてわびわびぞ行初午詣稲荷坂見あぐる朱の大鳥居ゆり動して人のぼ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ 火の番の音をきくと、「お稲荷さあーんと長く声を引いてあるく「稲荷ずし売」の事を思う。 田舎からぽっと出の女中が、銭湯の帰り何か変なものをさげて叱鳴って歩く男の気違が来ると横丁にぴったりと息をころして行きすぎるのを待って家へ・・・ 宮本百合子 「夜寒」
・・・ 文吉は宇平を尋ねて歩いた序に、ふと玉造豊空稲荷の霊験の話を聞いた。どこの誰の親の病気が直ったとか、どこの誰は迷子の居所を知らせて貰ったとか、若い者共が評判し合っていたのである。文吉は九郎右衛門にことわって、翌日行水して身を潔めて、玉造・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・箕村がひどく驚いて、近所を聞き廻ったり何かして騒ぐと、その時はまだ女中でいたお梅さんが平気で、これはお稲荷様の下さった鯛だと云って、直ぐに料理をして、否唯なしに箕村に食わせたそうだ。それが不思議の始で、おりおり稲荷の託宣がある。梅と婚礼をせ・・・ 森鴎外 「独身」
出典:青空文庫